子どもは伸ばすものではなく伸びるもの、というのが私の考えだ。
勉強に限らず才能というものは適切な環境下にあれば一定の時期を経て勝手に開花する。野に咲く花や木のように土と水と太陽、そして少しばかりの養分があればバラはバラに、ユリはユリに杉は杉の木に育つように。
人間も同じようなものだと思う。
虐待されたり飢えさせられたりとよほどひどい環境にない限り子どもの特性に応じて能力は自然に発芽する。
それなのに大人はアレコレ子どもをいじくり回してムリヤリ伸ばそうとするから、かえってイビツな形にねじ曲がったりする。
イビツな形になるだけならまだしも、教育する側によってはバラをユリにしようとしたり杉を松に作り変えようとする者もいる。
つまりその子の特性を生かすのではなくまったく別の種の能力をうえつけようとしている訳だ。
子どもにとってはこれはとんでもない迷惑な話だと思う。絵の才能があり本来は一流の画家になれたかも知れない子が「絵なんかで食っていけない!いまはちゃんと英語や数学を勉強して大学に入りなさい」と親に言われて平凡な勤め人になるようなもの。
「そんなこと言っても教育は大事じゃないか」と言うかも知れない。
教育は大事だが、それは子どもの特性(個性)を子ども自身が気づくよう励まし支えるという意味においてであり、いうなれば教育者(親も含めて)は支援者に近い立場に立って子どもが自らの才能を伸ばすことを見守る姿勢をとらねばならない。
たとえば良くある例だが、歴史が好きな子がいるとして、そんなときは親も一緒にテレビの歴史番組をみて感想を言い合うなどは良い姿勢といえる。
この場合子どもに語らせる、子どもから教えてもらうスタンスで臨むともっと良い。
絶対やって欲しくないのは「歴史ばかりやってないで他の教科もやりなさい」という余計なコメントだ。
私は過去40年に渡って数千人の子どもの教育に携わってきたが、どんな子にもその子にしかない特性があったと実感している。
もし大人たちが「勉強べんきょう!」と鋳型にはめることをしなければ、大部分の子はきっとユニークな個人的才能を伸ばしていけたはずだと思う。
勉強も自分のペースで伸ばすことを許されていたらもっと意欲的になれただろう。
誰でも「知りたい」「学びたい」「もっと自分を成長させたい」という欲求を潜在的にもっている。
大人は子どもの自然な知的好奇心をもっと大切に育て、目先の点数や他人に勝つことばかりにこだわらないで欲しい。
というわけで私は大人がもっと子どもの才能を信じて子どもが「楽しみながら」自力で伸びていけるよう励まし見守って欲しいと思っている。
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