私たちは目指したい理想や実現したい願望があっても、多くの場合「達成することは難しい」と考えがちだ。
たとえば、仕事で成果を上げること。起業して成功すること。理想的な人間関係を築くこと。経済的にもっと余裕のある生活や好きなことで食べていくことなど。たくさんあるだろう。
だが私たちは「先立つものがない」「時間がない」「家族の理解が得られない」など様々な実現困難な理由をあげて二の足を踏む。
それでいて「人生このままでいいのか」という不満や不安そして「もっと違う生き方があるのでは」という焦りやイラだちを抱えて生きている。
その一方で、自分の望みや理想を易々と叶えて幸せそうに生きている人も少なからずいる。
この両者の違いは何だろう。才能の差?努力の差? 実は才能でも努力の差でもない。考え方、立ち位置の差に過ぎない。その証拠に望みを叶え人生を謳歌しているように見える人が、そうじゃない人より努力しているとか能力が優れているとは限らない例はたくさんあるからだ。
ただ、彼らは多くの人たちと違う見方、考え方をしている。まず彼らには「願望を叶えることは大変だ」という観念がない。努力や困難の末に望みを勝ち取るのだという考えそのものが希薄なのだ。(後で述べるが努力主義は実現をむしろ遠ざけてしまう)
では彼らはどんな考え方、立ち位置に立っているのか?
彼らには「実現」に至るプロセスや手段方法などに必死に頭を巡らせることでエネルギーを費やしたりしない。いきなり「実現状態」に身心を直結する。思考、感覚、感情すべてのレベルを実現している状態に一致させてしまうのだ。
願望―夢―が実現しているその瞬間、自分は何を考え、見聞きし感じているかを想像しその通りに振る舞う。こうして「実現している未来の状態」に身心をチューニングさせている。
これは未来の先取りと言えるかも知れない。あるいは未来の自分をいま経験しているのだとも。
このように身心を先に実現状態に馴染ませることで「実現」を引き寄せている。方法論的に言うならこうなる。イメージトレーニングに近い。
ただ、彼ら(叶える人)はこれをトレーニングとか方法論だとはあまり考えず、望みの状態に波長を合わせることに長けている。
そして「そのうち実現するだろう」と鷹揚に構えてガツガツ叶えようとせず、普段は目の前のやるべきことに集中している。そうして「気がついたら叶っていた」となる。
つまりいったん「願望を手放す」ことがコツということだ。
手段にこだわり実現を妨げる
私たちの多くが願望を実現できない理由は大きくわけると次の2つだと思う。
1、願望実現を妨げる多くの観念をもっている
2、強く望み過ぎたり方法論(メソッド)に頼り過ぎている
まず1について。
たとえば私たち―特に日本人―は何かを成し遂げる際、積み上げ方式が正しいと信じている。「これをやるにはまずこうしないと」「これができたら次にあれをすべきだ」というように、段階を踏んで一つひとつ積み上げていくやり方が正しいと思っている。
そのうち手順を踏むこと自体が目的化してしまったりする。
確かに何らかの技能を修得したり、スポーツや勉強などで基本の上に高度な技能を積み上げるべきというなら理にかなっている。しかし途中のプロセスを飛ばしても結果を出せるなら、そのほうが良いこともあるはずだ。
組織などでも上司にお伺いを立てたり、稟議書を回したりするより現場の判断でさっさと動いたほうが良い結果になることも多い。特に緊急事態などかえって「積み上げ方式」が害になることもある。
子どもの勉強などでも、私の経験では知的好奇心の旺盛な子たちにはあえて細かいプロセスは省略して、少し高度な知識を教えたほうが食いつきが良いことが分かっている。今やっている学習は実はもっと高度な分野(最終到達点)につながっているのだと理解することで、子どもたちの好奇心は刺激され自ら勉強するようになる。結果として省略したプロセスも自分で学んでしまう。
いちばん悪いのは、達成すべき目標があるのにそこに至るプロセス(手順)ばかりに意識が向き肝心の目標がいつまでも達成されないことではないか。仕事でも勉強でもスポーツでも、私たちはとかく手段を目的化しがちだ。報告のための報告、会議のための会議、練習のための練習、形だけの勉強。こうして無限に手段(手順)ばかりが増え目標実現は遠ざかる。
実現の許可を与える
願望達成を妨げる観念はこの他にもたくさんある。
「つらい努力に耐えてこそ〇〇が達成できる」「人一倍苦労しないと成功できない」「世の中は甘くない」「楽してお金などもうかるはずがない」などなど…。
これらの観念は、子どものときから親や先生に教えられあるいは世間の常識として私たちにたたき込まれてきた。そういう意味では観念というより信念と言い換えたほうが良い。
これらの信念は私たちにこう言っているのだ。
「つらい努力が必要だ」「苦労が必要だ」「世の中は悪意に満ちている」「お金もうけなど考えるな」
これらの信念が鎖となって私たちの身体をグルグル巻きにしているところを想像して欲しい。
私たちの望むモノがたとえすぐ近くにあったとしても手を伸ばしてつかむことはとても難しくなるだろう。
願望を実現することが思ったより簡単だとしても、自らの信念がそうさせまいとしているのだ。仮に簡単に実現してしまったとき、多くの人は罪悪感を感じてしまうだろう。
叶える人というのは、こうした信念から解放されている人のことだ。少なくともガンジがらめにされていない。意識的か無意識的かは別として自分を縛りつける信念からは自由になっている。
だから私たちも本気で願望を実現したいのなら、このような実現を妨げる信念をできる限り排除したほうがよいのだ。
それには自分がそのような「信念」をもっていると気づくことが最初の一歩となる。
そうは言っても自分のもつ信念すべてを点検し気づき、消去することは困難だ。子どものときから植えつけられた何百何千もの信念すべてに気づくことなどできない。
だからもっと簡単にする。
「自分は願望を実現してもよいのだ」と自分に許可を与える。あるいは「自分は願望を実現するに値する人間だ」と自分に宣言する。
これだけで良い。あまりにシンプルで信じられないかも知れないが効果は大きい。
これはつまり、自分の中に実現を妨げる信念があることを認めた上でそんな自分を丸ごと肯定する文言だからだ。
願望実現であれ、幸せな人生であれ、問題解決であれ人生が好転し続ける上で大前提となるのは自己受容だからだ。たいていの人は、物事がうまくいかないとき自分の欠点や改善すべき点を改めようとする。これは自己否定であり自己拒絶のあり方といえる。
自己を否定したまま何かを実現することはまずあり得ない。
上の例で言うなら、せっかく自分の有害な「信念」に気づいてもそんな信念をもつ自分は良くないという自己否定に陥りがちでそうなると本末転倒ということになる。
だから認め許可し宣言する。それは言い換えれば、どんな自分であっても全面的に受け入れることであり自らを愛するということに他ならない。
こうして自らへの愛が役に立たない信念を、排除するというより溶かしていくことになる。
長くなったので「願望実現を妨げる理由2」については次回に記したい。
コメントはお気軽にどうぞ