私たちは日頃無意識で多くの役割を演じて生きている。店に入れば客を演じ、会社では部下を演じ家に帰れば夫であり妻であり子どもに対しては親を演じている。こうして多くの「役割」を私たちは様々な場面に応じて使い分けている。特に意識しなくても自然にこの使い分けの機能は稼動する。「当たり前ではないか」と思うだろう。確かに私たち人間が社会的存在である以上「様々な役割」を立場に応じて果たすからこそ社会は機能し発展してきたといえる。
だが「役割を演じること」は良いことばかりではない。特定の役割を無意識に演じ続けるうちに「役割」が人格そのものになってしまうことがあるからだ。
人は往々にして「役割」と安易に同化してしまう。役割が自分のアイデンティティとなってしまうと真の人間関係は結べない。学校では先生であっても家に帰ってさえ「先生の仮面」をつけたままでは家族関係はうまくいかない。「上司の仮面」でも同じだ。
よく大きな会社で高い地位にいた人などが退職後もその「偉そうな」態度を棄てられず周りのひんしゅくを買う例を見かけるが、これも役割を演じ続けるうちに同化してしまうからだ。教師臭さが抜けず周囲から疎ましがられる人もいる。
役割は便宜的なものに過ぎない。状況や立場に応じて「つけ替え可能」な仮面に過ぎない。それなのにそのことを忘れて自らのアイデンティティとしてしまう。つまり自己同一化してしまうと人間関係から本来得られるはずの親密さや豊かさが奪われてしまう。
親子関係でいうなら、もしあなたが「威厳ある父親」を演じ続けたら子どもとの間に親密で暖かな交流を築けず、よそよそしい間柄のまま過ごすことになるかも知れない。逆に「物分かりの良い親」を演じる余り頼りにならない親として軽んじられるかも知れない。
私の経験では「親なのだから子どもに弱味を見せてはいけない」と過剰に親を演じ過ぎる人が多いが、親とはこうあるべきという役割イメージが強すぎてかえって子どもから敬遠されていると感じる。
忘れてはいけない。親も人間であり長所もあれば短所もある。親だから強くあらねばならないということはない。強さも弱さも兼ね備えた一人の人間としてあるがままの姿を見せたほうが子どもの成育には有用なことは多い。
親は万能である必要はない。また特定の役割イメージを持ちすぎてもいけない。等身大の自分、あるがままの自分でいてその自分にくつろいでいるだけで良い。そうすれば子どもも「自分らしくして良いのだ」という安心感を得られる。何者かを演じることは周囲を緊張させ疲れさせる。
上司であれ親であれ、先生であれ社長であれその人があまりにも「役割」と同化していると、その役割を通してしか人と関われなくなる。本来の人間としての正直で誠実な交わりができなくなる。やがて役割そのものがアイデンティティと化して「本当の自分」が何であったのかさえ思い出せなくなる。役割(仮面)の中に自分を見失うのだ。
そうならないように人は意識して「役割」と距離を取ることが必要だ。何も無責任であってよいというのではないし慣れ合いで済ませろという話でもない。役割は社会生活を送る上での機能の一つであると理解して、普段はなるべく「素の自分」を恐れずさらけ出すほうが人間関係も物事もスムースに運ぶと言いたいのだ。
実は私も40代までは教育者として組織の長として「こうあるべき自分」を演じていた。また父親としても「子どもをこう育てるべき」というイメージに縛られていた。だから人生はいつもハードモードに包まれていた。言う通りやらない生徒、指示した通り動いてくれないスタッフ、問題行動を起こす我が子というように常にトラブルに見舞われ続けた。
それは私が役割を「立派に果たすこと」にアイデンティティを求める余り、役割を通してしか人を見て来なかったからだ。私こそが真の交わりを遠ざけていたのだ。
少しずつそれに気づいて「演じること」を手放し素の自分を出し始めると、つまり「ありのまま」を自らに許すと周囲の状況は次第に好転し出したのだ。
最初はすべてが崩壊するような怖さを感じた。大人として社会人として「役割」を果たすことはとても大切だと信じていたからだ。しかしそこには限界も感じていた。多分本来の自分を押し殺している閉塞感、偽の自分を演じている罪障感のようなものがあったのだろう。それを止めることでむしろ人間関係を始め物事や状況は良くなることが分かった。
私たちは「素の自分」でいることを恐れてはいけない。私たちは役割や特定のアイデンティティに固執することで一種の安心を得たいのだ。自分とはこういう者であるという確かな基盤があれば自我は安定する。
しかしそのことがかえって親密な人間関係―真の対等で自由な人との交流―を妨げがちなことを忘れてはいけないと思う。
役割に逃げ込まず、ありのままの自分でいることを自らに許しそこにくつろいでいれば周囲も自ずと心を開いてくれる。
私たちは常に何かを目指し何者かになろうとする。そしてその果てに幸せをつかもうとする。しかし本来の自分、ありのままの自分こそが最高の宝だったということ。まさに幸せは足元に埋まっていた。そのことを思い出すことが実は人生という旅の目的なのかも知れない。
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