「他人(ひと)の痛みを分かる人間になりなさい」
これも親が子どもによく言う言葉の1つではないでしょうか。同じように「他人(ひと)の気持ちを分かる人になりなさい」もよく聞きます。
幼稚園児などが人のモノをとって相手を泣かせたり、ブランコの順番待ちに割り込んで騒ぎになったとき大人はよく上のような言葉で注意します。
子どもの頃、しょっちゅう傍若無人ぶりを発揮していた私は親や先生、周囲の大人から「そんなことをされたらどんな気持ちになるか少し考えなさい!」と他人の気持ちを「分かるよう」叱られたものです。
傍若無人なふるまいは叱られて当然ですし、自分がされて嫌なことは他人にしないことは極めて大切なルールだと思います。
しかし「他人の痛みを分かるようになれ」という言葉はどうでしょうか。
この言葉を使う親は「人の気持ちが分かる共感力のある子に育って欲しい」あるいは「他者の身になって考えられる優しい子になって欲しい」という気持ちを込めて言っているのでしょう。
その親心は分かります。
それでも私はこの言葉に「他人に迷惑をかけるな」(⇒ココ)と同様の危険性を感じてしまうのです。
そもそも「他人の気持ち」「他人の痛み」とはそんなに簡単に分かるものなのでしょうか。
わかるはずがないというのが私の答えです。
私は「他人の気持ち・痛み」をその人が感じている通りに感じることはできません。もちろん想像することはできます。
時と場合によっては、相手の感情や気持ちを自分のことのように察知することはあります。
それでもそれは相手が感じている、まさにその感覚を正確にその通りに感じていると絶対の自信をもって答えることはできないのです。
まして痛みをそのまま感じることなどできません。
それは当然のことで「他者の痛み」を理解するにはそれ相応の成熟が必要だからです。
人の感覚や価値観は理解できない
他人の気持ちや痛みを分かることの困難について、その前提として「感覚」は人それぞれ大きく異なるという事実があります。
食べ物の嗜好や、音楽の好み寒い暑いの感覚の違いは誰でも思い当たるところでしょう。
何を快と感じ何を不快と思うかも人によって異なります。
路上でギターをかき鳴らす若者たちの歌を心地よく聴く人もいれば、ただの騒音としか感じない人もいます。居酒屋でナマコを注文する人がいますが、「あの、マッタリとしながらもゴツゴツした食感がたまらない~」と言われてもナマコが嫌いな人には意味不明です。
要するに快、不快や好悪などの感覚は人それぞれだということです。
同じように出来事や状況、対人関係においても何をどの程度感じるかも人によってマチマチです。
ある出来事や状況に対して「不幸だ」「絶望的だ」と言う人もいれば、同じ状況でもそれほど感じない人もいます。
会社などで上司が注意した言葉に「自分を否定された」と傷つく人もいれば、同じ言葉に「励ましてもらえた」と肯定的に受け取る人もいます。
私にも経験がありますが、自分の発した言葉や行為が思いがけず他者を傷つけ逆鱗に触れることがあります。こちらには全くそんなつもりはなくても相手は私に傷つけられたと思っているわけです。
多くの人はこのような経験をすると、相手をまた傷つけるのではないかと恐くなり他者の顔色をうかがうようになります。
その結果、本心からのコミュニケーションが成立しなくなる。私にはこのことのほうが問題ではないかと感じています。
確かに「人の気持ちを理解する」「他者の痛みを分かる」ことは、人と人が円滑に意思を疎通し平和に暮らしていく上で大切なことです。
しかし、人の「受け取り方」はさまざまである以上、誰にでも当てはまる伝達法はないのではないでしょうか。
状況によっては誰かを傷つけることもあり得ることを理解し、それでも本心でコミュニケーションを計っていくことが大切ではないかと思います。
他人を理解することの難しさ
「他人の気持ちを分かる人になろう」
「他人の痛みを理解する人でいて欲しい」
これらの美しい言葉は一見、他者を思いやる優しい人間のあり方を示しているようにみえますが、安易に子どもに伝えることには注意が必要です。
人が人を理解することは大変困難です。
他者が何を考え、どんな価値観をもちどのような状況で傷つくかをあらかじめ知ることなどできないからです。
基本的に人は他者の気持ち(痛み)は理解できないと心得ておかなければなりません。
その前提に立って、それでも何とか他者を理解しようと試みる努力こそが尊いのではないでしょうか。
安易に「人の気持ちを分かれ」と言う背景には、他人の気持ちが簡単に理解できるはずという楽観すぎる人間観がある気がします。
この人間観はある意味傲慢かも知れません。
人と人は簡単に理解し合えるものではありません。もしそれほど簡単なら、どうしてこれほど人間関係の行き違い、トラブル、紛争が絶えないのでしょう。
世界から戦争がなくならないのでしょう。
人生の不幸や悲劇の大半は人間関係のトラブルに起因しています。
そしてその大きな理由として誰もが「自分を分かって欲しいが、でも分かってもらえない」という悩みが占めています。
これは当たり前であって、人と人はなかなか分かり合えないという前提を忘れているからです。
さらに追いうちをかけるように、私たちは幼いころから「他人の気持ち」を分かるようにつまり「他者優先」でいるよう言われ続けました。
その結果、自分を押さえて他者の顔色や空気を読む習性を身につけてきました。
でもこの努力は報われません。なぜなら、どんなに他者の顔色をうかがい空気を読んだところで全ての他者の気持ちを理解することなどできないからです。多種多様な心をもつ人々全てを満足させることは不可能で、必ずこちらの言動に傷ついたり怒る人は出てくるのです。
それどころか「他者の気持ちを分かる」よう配慮すればするほど、こちらの真意は伝わらないという困難に陥りやすい。
それは自分の「本音」「本心」を押さえて他人と接するからで、真のコミュニケーションが成り立っていないからです。
自分の気持ちこそを大切にすること
こうして「分かってもらえない」という負のループが続くわけですが、皮肉なことに「人の気持ちを分かれ」というメッセージそのものが互いの理解を遠ざけているのです。
ではどうすればいいのでしょう。
私がお勧めするのは次のような方法です。
まず人と人は簡単に理解し合えないことを前提に置いたうえで、他者を優先するのではなく自分の気持ちこそを大事にすること。人と接しているとき、自分が今何を感じているのか明確に気づいていることが大切だと思います。
もし不快だったり傷ついているのなら、そのことから顔をそむけるのではなく感じていない振りをするのでもなく、正直にその感情を感じてみることです。「こんなこと感じてはダメだ」とか「相手に悪い」と思うのではなく、そのような感情が現に自分の中にあることを認めるということです。
そして時には、その気持ちを穏やかに相手に伝えてみることも必要です。なぜなら相手は自分がそのような気持ちにさせたことを知らない可能性が高いからです。もちろんいつも口に出して伝える必要はありませんが、少なくとも自分で自分の気持ちに気づいていることは大事です。
多くの人が人間関係でフラストレーションを抱え、怒りや悲しみの感情をためこんでいるのは、相手の問題というより自分の本心(気持ち)を分かっていないからだと思います。他者を優先するあまり自分の気持ちを押さえ込み、そのうち本当の自分の感情に気づけなくなっている人が多いのです。それが怒りや悲しみの原因なのです。
自分の気持ちを分かっていない人に他者の気持ちなど理解できるはずはありません。
だから自分の気持ちに常に気づいていること。自分を分かってあげることが最大のポイントです。
これができて初めて他者理解へと歩を進めることができるのです。
自分を分かってあげること。自分は自分に分かってもらえないことを悲しんでいると気づくこと。自分とまずコミュニケーションをしっかりとることが基本中の基本です。
こうして自分を大事にすると不思議なことに他者と心が通じ合う場面が増えてきます。
人間は表面上の違いはありますが、深い領域ではつながっているからでしょう。
口先だけの社交辞令的なコミュニケーションを超えて、深い部分での共通理解に達したとき私たちは真のコミュニケーション、互いの違いを認めながらも親密な交流ができるのです。
ですから私のメッセージはこうなります。
他人を理解することはできないが、その表面的な違いを超えてつながることはできる。そのためには自分の気持ちに正直になり自分を大切にすること。
そうすれば結果として自分と異なる他者の価値も認めることができ、真のコミュニケーションの可能性が開く。
だから「他人の気持ちをわかってあげよう」とするのではなく、自分を理解すること。常に自分の気持ちをこそわかってあげるよう努めよ。
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