私は世界史の講師をしていることもあって、授業の冒頭で世界の時事問題をよく取り上げて紹介します。先日フランスで起こった大量殺人事件についても概略を紹介し、事件が起こるに至った経緯を歴史と絡めて説明しました。
そんなこれまでの流れからいって、イスラム国による日本人殺害事件も本来であれば触れるべきでしょう。しかし、どうも抵抗があるのです。フランスの事件は躊躇なく取り上げたのに、日本人の事件は取り上げないというのは筋が通らない話ですが、とにかく途方もない「難しさ」を感じてしまっています。それは、何を言ってもどこかに必ず話者の「主観」が入ってしまうこと、さらにはその「主観」が講師というある意味で教室における「権威」ある存在のものであることを今更ながらに強く意識するがゆえでしょう。
一方で、この「主観」の影響を恐れて何も言わないのも違う気がします。結局、何も言わないことも一つのメッセージとなり、何らかの影響を生徒達に与えてしまうかも知れません。さらに、社会を教える講師として、明らかに現代社会に重大な影響を及ぼす事件に触れないことは、大げさに言えば職業倫理に反する行いとまでいえるでしょう。
そう考えてみて、遅まきながらあらためて歴史を教えることの怖さに思い至りました。社会の講師は基本的に歴史を一つのストーリーとして教えます。Aというできごとがありました。Bというできごとがありました。Cというできごとがありました。と教えるよりも、AというできごとがあったからBというできごとがあり、その結果Cになって、と擬似的な因果関係を作ると、生徒達は全体像を理解することが容易になります。前者であればとりあえず言葉を暗記する以外にありませんが、後者であれば理屈で「理解する」ことができます。しかし、この「因果関係」が確実に正しいという保障がどこにもないのが問題です。ある因果関係が学界の定説として教科書に書かれているとしても、その大本の学会や学者自体が正しいという確証はないのです。さらに踏み込んでいえば、歴史に対して「正しい」「正しくない」という判断が可能なのかも不明です。その判断をするためには何らかの判断基準が必要であり、判断基準は何らかの価値観に基づいています。そして、その価値観が「正しい」根拠がないのです。
結局のところ、私はいくつかの「因果関係」を並列的に紹介する形に逃げるしかありません。こういう考え方もある。他にこういう考え方もある。と選択肢をたくさん出すだけに留めています。これが正解なのかは分かりませんが、苦肉の策です。今回のイスラム国の事件も、最終的にはいくつかの解釈を紹介することになるでしょう。でも、やっぱり言いようのないジレンマが残ります。
考えれば考えるほど怖い、講師というお仕事です…。
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