教育研究所ARCS

学校の賞味期限は切れたのか②

教育・子育て

前回の続き、学校神話についてです。

日本で学校神話が誕生したのは、明治時代後期ちょうど日露戦争が終わった頃です。

この頃から大学など高等教育を受けた者が、社会的に優遇される「事実」を背景に多くの人が「学歴獲得」を目指し、狭き門に殺到したわけです。

何と大正時代には既に「受験戦争」ということばがマスメディアでも盛んに取り上げられ、加熱する受験競争を批判しているのだから驚きです。

考えれば明治維新から40年も経たずに、日本中に教育熱が燃え盛り「学歴」を通じて社会的に成り上がろうとする風潮が定着していたということになります。

  日本の学校神話のもう一つの側面

日本は欧米に遅れて近代化に突き進んだ事情もあり、国家による教育の普及が急だったと言えます。追いつき追い越せの精神ですね。

だから、学校も身分だの出身地だの階層だのは関係ない。学力さえあれば誰でも入学を許可するということで、教育方法は画一的であっても機会の上での平等は徹底していたのです。

それがペーパーテストによる受験地獄を生んだとしても、全国から秀才を一気に集める方法としては効率的だったと思います。

そして彼らに短時間で先進国から輸入した知識や技術を丸暗記的につめこみ、さらにその中から選りすぐった者を欧米に留学生として派遣し、先端知識を吸収させ戻って来るとすぐに社会の要職につかせる。

この方式はマンマと功を奏し、日本はあっという間に「列強」の仲間入りを果たしたわけです。

学校の果たした役割は、まことに大きかったと言わざるを得ません。

いわば学校というものが、日本という国を近代国家に“促成栽培”する装置として働いたわけで、日本ほど学校教育が国家の発展に尽くした例はあまりないのではないかと思います。

もう一つ。学校神話を支えたものがあります。これは日本の学校の特徴ですが学校文化というものがあります。

これは、勉強だけでなくしつけや集団としての規律を学んだり文化祭や運動会、修学旅行そして部活動などを通じて、子どもたちの情操や人間としての規範意識を高め、娯楽や芸術などのサービスの場を提供する機能を同時に果たすことを意味します。

まとめるとこうなります。

学校は先端知識を授けてくれる場である。同時に学校は人間を豊かにするための文化活動を提供してくれる場でもある。

前者はいわば学校の果たすハード面。後者はソフト面とでも言えましょう。

振り返れば、昭和30年代くらいまでの一般大衆の生活レベルはまだまだ低かった。

参考書や学習教材も乏しく、情報も行きわたらない時代、学校で学ぶ知識は常に時代の先端を行くものだったし、旅行や娯楽に割けるお金や時間もない時代学校の提供するサービス(運動会や修学旅行…等)は親や子どもにとって有り難いものだったと、私自身の記憶からも言えます。

 学校神話の崩壊

ここまで学校神話の誕生と変遷について長々と歴史の授業よろしく書いてきました。

そろそろこの長い記事も終盤を迎えます。

さて、戦後の高度成長の終わり、すなわち1970年代に入ると日本の学校神話にも陰りが見えてきます。

これを象徴するものとして私は2つの社会現象をあげようと思います。

1つは1970年代後半から始まった校内暴力の連鎖。もう1つは同じ時期の学習塾の急激な発展です。

校内暴力は中学校を中心に、生徒たちが校舎を破壊したり教師に暴力をふるうなど“荒れる学校”が全国的に連鎖し当時のマスメディアを賑わした大きな社会現象のことです。

私も高校教師と塾講師をかけ持ちしていた頃で、生徒たちの「何で良い学校に行かなきゃならないんだ」「何で校則で俺たちを抑えつけるんだ」という詰問を浴びせられたものです。

校内暴力現象は端的に言って、学校の権威が失墜したことの現れだと思っています。

なぜなら教師や大人たちは上位の問いに答えられなくなっていたからです。

これは学校の提供するサービスが、最良最高のものではなくなったことを意味します。

授業の巧みさや受験指導は学習塾や予備校などの方がはるかに上です。

さらに豊かになった家庭や社会においては、学校に依存しなくても民間のサービスを通じて自前で調達できるようになりました。

たとえば「自分をイジメるような奴ら」と集団で修学旅行に連れていかれるより、家族でハワイに行く方がずっと楽しいといったように…。

つまり「社会が学校を追い越して」しまったのです。これは日本がこの時期科学技術の分野でも国力という意味でも、既に欧米に追いつき追い越してしまったことと軌を一にしています。

さらに学校神話を支えた画一性と平等性も時代の変化によって厳しく批判され始めます。

勉強が知識の詰め込みに過ぎず、その詰め込み力を試す受験制度の弊害も目立つようになったからです。

かつては有効だった、しつけや集団の規律も時代遅れの形式的な押しつけとなり校則は学校の管理の象徴、悪しき抑圧と映るようになりました。

現在学校の意義は危機に瀕していると言えるでしょう。

社会は高度に進化し複雑化しています。昔のように「学校」を出た者がすぐに社会の要職を占める時代ではありません。

それどころかどんな有名大学を出ようが、知識の面でも人間関係のスキル面でも学校出たての者が活躍できる分野はゼロと言って良いでしょう。

学校出がエリートではない時代にとっくに入っているのです。

知的部分は塾や予備校が、人間関係は企業が担当する時代に入ったと言えます。

校内暴力や管理一辺倒の時代を経て、いま学校は「生徒を丸ごと面倒を見る」役割から手を引き、戦線を縮小して何とか自らの存続のみを願っているかのように見えます。

私にはそれが「学校の役所化」にも、あるいは自信を失っているようにも思えます。

このように時代が変わったのに、近代化に乗り出したころと同じ思想では学校もやって行けなくなったということです。

かつて恐竜やマンモスなどが環境に最適化したために繁栄しながらも、その適応しすぎによってかえって環境の激変に耐えきれず絶滅したように学校も社会や人々の価値観の進歩という、環境変化に対応できず役割を終えてしまうのか危ういところにいる気がします。

学校の賞味期限は、少なくとも近代化促進の原動力という意味では切れているのは明確な事実だと思います。

学校が再生するには、全く別の価値観のもとに再構築するしかないというのが私の考えです。

私としては子どもがいる限り学校が存続して欲しいし、簡単に「絶滅」するとは思いませんが、新しい時代にふさわしい「人間像」を見据えた教育哲学をしっかり持って復活することを期待したいのです。

学校がかつての輝きを取り戻す日こそが日本の未来に希望が持てる日であると思うからです。

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