1.
よく親と話すと「子どもを主体性ある子にしたい」とか「子どもの個性をのばしてあげたい」と言う。主体的であること個性的であること。これは親が子に望む2大要求と言ってよいかも知れない。
しかしこの2つの性質。親は本当に心から望んでいるのだろうか。単なるスローガンではないか。
親が言う「主体的」とは、言われなくても自ら進んで勉強したり計画に沿って行動できる子であり、はたまた部屋をきれいに保ったり学校の部活や友人とも積極的に交流をもつ。つまり「良い子」のことではないだろうか。
ここには2重の欺瞞というか矛盾がある。
親の言う「主体性」とは親にとって都合の良い子を意味しているのではないかということ。それと「言われなくても」という言葉が示すように、親の手をわずらわせないで行動してくれる子が望ましいと思っているということ。
もしそうならこれはおかしい!
よく考えて欲しい。親の望むことだけを言われなくてもやる子。これのどこが主体的な子どもだろう?これは親に完全にコントロールされた子であって、むしろ主体性に欠けた人間と呼ぶべきではないだろうか。
主体的とは自らの頭で考え行動する人間である。本当に主体的に物事を考えれば様々な疑問に気づくはずだ。その結果主体的に勉強しないとか、主体的にルールを守らないという選択も当然のように思い浮かぶ。
高校時代の友人にH君という男がいた。高2のとき数学の教師が「数学も暗記だ。暗記するのが数学だ」と言うのを聞いて激しく反発。以来彼は「数学は一切勉強しない」と数学放棄宣言をして、赤点ギリギリの点しか取らないで過ごした。ちなみに彼はそれまで数学はバツグンにできた。それでもHは主体的に数学を放棄したのだ。(その後H君は超難関私大を3校受け全て合格、大手銀行に勤めた)
これは1つの例だが、主体的とはそもそもゼロベースで考える人間のあり方であって「ルール」とか「こうすべきという囚われ」から脱して自由に発想するのが特徴だ。ルール(前提)そのものを疑った上で、そのルールに従うも従わないも自由に決められる人のことだ。
多くの親が望むルールの枠内での主体性とは言語矛盾に過ぎない。それなら単なる良い子(優等生)であり、ルールを疑わないという意味で受動的人間である。
2.
個性的というのも全く同じで、他人と横並びでなく己の特性をどこまでも貫き通すのが個性的人間のあり方である。個性の強い人はそれが強烈な魅力となって人をひきつける反面、反発をくらったり足を引っ張られることも多く波乱含みの人生になりやすい。
個性が強くて成功するのは、その個性をうまく仕事や人間関係に役立てることのできた人であり、才能にも恵まれた人に限られる。分かりやすいところでは、芸術家やスポーツ選手芸能人など個性そのものを武器とする職業についた場合だ。
そうじゃない一般人の場合、個性の強さが人生を歩む上で障害となるほうが大きいと感じている。特に我が国のように他者に同調的にふるまうことが求められ、協調性が重視される社会においては「個性的であること」は悪目立ちになりやすい。「空気を読まない奴」とか「変な奴」と言われてイジメの対象になることさえある。
よほど才能があるか圧倒的な魅力を放つのでない限り、中途半端に個性的であることは排除されつぶされたり自らドロップアウト(順調な人生から外れること)する危険性があるのだ。そうなると世間や他者を呪ったまま偏屈な人間となって残りの人生を送ることになりかねない。(実際そういう人はけっこう多い)
何か脅しているように聞こえるかも知れないが、私の言いたいのは「個性が大事」「個性尊重」とかの一見キレイなスローガンを安直に受け入れて「そうか。個性が大事なんだ」と我が子に中途半端な「個性教育」を施す親に注意を喚起したいということだ。
たとえば、本人が望んでいるからといって色々な習い事や何とか教室をハシゴさせたり、単なる子どものワガママな自己主張を「あなたの考えを尊重するわ」などと増長させることが個性教育ではない。それこそ先に言ったような「中途半端に個性的」な人間作りになってしまう。
3.
もう一度最初の問いに戻りたい。
親であるあなたは本当に我が子に「主体的」で「個性的」であることを望むのか。
この2つの要素には光と影がある。
くり返しになるが主体的人間とは、自分の頭で考え行動する人間である。他者にわずらわされず自分なりの基準で物事を判断できる人間であり、当然多くのことに疑問をもち常識や世間の物差し(ルール)にも反旗を翻すことも厭わない。
個性的人間とは、己の特性がきわだちそれを貫き通す点で平均的人間に比べ異彩を放つ。同色の集団の中に一点だけ別の色が浮き立つようなものだ。
これらは彼らの共通する「光」の部分だ。社会の進歩や改革という大きな視点でとらえたとき、主体的で個性的な人間という存在は欠かせない。
組織の改革。科学やテクノロジーの進歩。新しい概念(パラダイム)の創出や新しい価値の創造。人々に喜びや美を与える芸術作品。
つまり社会に豊かさをもたらしたり人々に幸せや感動を与える役割は、主体的で個性あふれる人たち―常に前代の常識や価値を疑い改革する者たち―が担ってきたのだ。
(たとえばガリレオは天動説を疑い、科学に全く新しいパラダイムを提供したし、アインシュタインはニュートン力学の絶対性を疑うことで相対性という新しい知見をもたらした。幕末の志士たちは江戸幕府を瓦解させることで近代日本への扉を開いた。)
彼らがいなかれば今の繁栄した社会は成り立たない。だから「個性的であれ」「主体的であれ」は社会の要請そのものだと言える。だが彼らが幸福な人生を歩むかどうかは別である。彼らは既存の価値観を疑い時には崩壊させるからだ。当然その時代から疎まれ排除される危険性を伴う。
(ガリレオは教会によって宗教裁判にかけられ、アインシュタインはナチスに追われアメリカに亡命した。幕末の志士たちを輩出した松下村塾の吉田松陰は30歳で斬首刑に処せられた。)
これがすなわち「影」である。
4.
だから結論として言うなら、親は光の部分(都合の良い部分)だけ見て子どもに個性とか主体性を求めていないかどうか考えるべきだ。あるいはそういう教育方針がスローガン的に見栄えがするといったレベルで安易に口にしているだけではないか、もう一度よく問い直して欲しい。
そもそも個性的かつ主体的な子は、先のH君のように親や教師をハラハラドキドキさせるものなのだ。うまくいけば社会的に成功するかも知れないが、不遇な人生を託つ可能性も高い。当然親にも覚悟が必要である。
もし私が我が子に主体性や個性を求めるかと問われたら、YesでもありNoでもあるというのが答えだ。他人の顔色ばかりうかがったり周囲に流されたりして欲しくないという意味では主体的であるべきだと思うし、自分の特性を十分生かして生きるべきという意味では個性的であって欲しいと思うからだ。但しむやみに周囲とあつれきを起こすのではなく全体を常に念頭に置き、状況や他者を活かすためにこそ主体性と個性を発揮することを心がけること。周囲とのバランスをとって欲しいということだ。
なぜならこのバランスを欠いたまま、個性的主体的であろうとすると知らず知らず一人よがりになったり、自己中心的になりがちだからだ。しかし、根底に「全体のため」という利他心があれば主体的に行動し、個性を発揮することは大いに役立つだろう。たとえ一時的に誤解され非難されても最終的には認められる。全体のためは「影」を回避する重要なポイントだ。
つまり単なる個性主義、主体性を唱えるだけではダメなのだ。全体を活かす(世のため人のため)ためにこそ自らの個性と主体性を使う(発揮する)よう心がけること。
そうして初めて個性を発揮し主体的に生きながらも個人の幸福を獲得することができるのだ。
我が家はおそらく 主体的 個性的な子 です。先生が決めたルールをおかしいと思えば先生に反発し、ルールの理由を問いただす→決まりだからとしか答えられないことも多く 先生から敵対しされる・・。
例えば 呼び捨て禁止ルールがあり、親しい間でファーストネームを呼び捨てしてはいけない理由を聞く→いうことを素直に聞けない問題児扱いされる・・・。
親から見たら 悪いことをしているわけではないのですが、先生から問題児扱いされるというのは 親子でとてもストレスです。
みんなと同じことをしない といわれ続けるのはものすごいストレスなので 普通の子 みんなと同じことをして目立たない子 だったらどんなに楽だったかと思う毎日です。
お子さまは自分の頭で考えることのできる子です。「ルールだから」「常識だから」と何も疑わず自ら考えようとしない大多数の人より、何かを成す可能性は高いでしょう。
なので不平不満を言うだけの人間にならないよう今から得意分野を伸ばすよう努めて下さい。
エネルギーを「反抗」に使うのではなく、自らの力を伸ばすことに有効活用するということです。
親としては我が子が「問題児」扱いされることはストレスだと思います。私も同じタイプで母親がよく学校に呼びだされていたのでお気持ちはよく分かります。
私の場合は担任が変わったことで状況は急転しました。若い新任の教師は私をクラスのリーダー格として扱い、責任と実行力の大切さを私に教えたくれたのです。
このように「状況」が変わればお子さまの置かれている立場も変わります。またこれからの社会はお子さまのように「疑問をもつ」個性的な人間を必要としています。
親としてそのことを理解し大きな視点でお子さまの将来を考えてみて下さい。大丈夫です。お子さまは今の経験を糧にして大きく成長するでしょう。