最近ネタが私事ばかりですが、今回もやはり私事です。
唐突ですが、先週iPhone6を買いました。これまでAndroid携帯を使ってきて、特に不満もなかったため、新型iPhone発売のニュースを見ても、当初はほとんど聞き流していました。写真を見てもそこまで惹かれるデザインでもなし、画面が大きくなったといっても、Android携帯にはそれ以上の大きさのものがたくさんあります。それなのに、ふらっと電気屋さんに行って実際の機械を見たら、その瞬間に機種変更を申し込んでいたのです。
Androidに変える前はiPhone3Gからの忠実なiPhoneユーザーだった私ですから、久しぶりにiPhoneに戻ってみると、なにやら実家に帰ったような安心感を覚えます。
ケータイはなぜかわくわくする
思い返せば、高校生のころに携帯電話を持って以来、数限りなく機種を新しくしてきました。電話をするという用途だけなら特に必要もないのに、新しい機種が出来るとなぜか身体が「ムズムズ」するのです。これはもう病気ですね(笑)。
メールも電話もそんなにするわけではないので、「電話」自体にはあまり興味ありません。ではなぜ自分はここまでケータイにわくわくするのか。考えてみると、たぶん私はケータイを携帯電話としてではなく、「手のひらに凝縮された世界」と捉えているのでしょう。大人になってからはじめてインターネットに触れたわたしにとっては、ネットの世界はまさに「新世界」でした。思い返せば大学1年生のとき、はじめて買ったパソコンで、必死に難しい設定をして、ついにインターネットに繋がったあの瞬間。文字通りからだが震えました。画面の中で文字を打てば何でも調べられるし、それまでは注文してから届くまでに3ヶ月くらいかかっていた洋書も、ネット注文ですぐにとどきます。そして、極めつけは画面の向こうに「人々」がうごめいている感覚でした。
はじめはパソコンでしか見られなかったネットは、機械の進歩とともにケータイでも見られるようになります。そしていまや、ケータイが小さなパソコンとなって、何もかも手のひらで完結させることができるようになったのです。この驚き、喜びは、たぶん昔を知っているがゆえのものでしょう。
ケータイに意外に無頓着な現代の子供達
高校生を見ていると、ケータイを持っていない生徒はほぼゼロです。みな手足のように使いこなしています。でも、あんなに使っているにもかかわらず、彼らはそこまでケータイに興味を持っていません。ケータイで使える「アプリ」は多少気にしますが、機械そのものや、様々な機能を可能にするシステムについては、驚くほど無頓着なのです。もちろん高校生は好きに機種変更をするお金がないため、親に買い与えられたものを使うしかない、という事情もあるでしょう。しかし、それ以上に、ケータイは彼らにとって当たり前のものであり、ありふれたものになってしまったことが影響しているのかも知れません。これはたぶん、遙か昔、インターネットやパソコンの黎明期に技術者達が夢見た世界でしょう。
でも、一方で、自分たちが今当たり前のように享受している利便性を縁の下で支える「ブラックボックス」の部分に興味を向けないと、いつしか自分たちが「なにをやっているのか」すら分からなくなってしまいます。
あんなに使っているのに、意外なほどケータイを知らない。この事実を「知る」ことこそが重要なのです。
「うちの子供はいっつもスマホばっかり見て…」と、イラっときている保護者の方。気持ちはとてもよく分かります。でも、そこで少し視点を変えて、スマホで使われている技術やサービス、システムについて話をしてみてもよいかもしれません。日用品であるからこそ、意外と興味を持ってくれるものですよ。
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