最近感じていること。それは「望みの世界」や「理想の状態」というものは特に望まないときに実現するということです。
分かりにくい言い方ですが、そう実感しています。
願望や理想を具体的に強く願っているときは叶わなくて、それを意識しないとき忘れているときに気がついたら実現しているということです。
実現してから「ああ、そうだった。こんな現実が欲しかったのだ」と後で分かるという具合です。
あれほど望んでいるときにはなかなか叶わなくて、忘れたり「どうでもいいや」と執着を手放したときにちょうど良い形で実現していたということが多いのです。
必死に追い求めたり何がなんでも達成するぞと激しく意気込んでいるときはうまく行かず、かえって諦めたり意識にのぼらなくなったときにこそ望みや理想は実現するのだとすれば、人生は皮肉なものだという気がします。
でもこれは、願望実現のメカニズムをよく現していると思います。
影と同じようにそれは追い求めれば逃げていき、立ち止まって振り返れば常に足元にいたことに気づくようなものです。
それはなぜなのでしょう。
おそらく「願望」というものを実現すべきものとして対象化し、未来に投影することでかえって遠くに追いやり実現を困難なものにしてしまうのかもしれません。
たいていの人は手に入れたいモノや状況があるとき、それを目標として掲げ実現に至るプロセスを細かく計画します。つまり目標に至る手段、方法に注意をフォーカスしていきます。
そして実現への欲求を強く感じるほど状況をコントロールしなければと思うようになります。
すると事態は複雑になります。「コントロールしなければ」という思いがコントロールすべき状況をますます引き寄せ、「困難を排除しなければ」という思いが困難な事態を引き寄せる。
こうしてイタチごっこが続く間、願望の実現は遠ざかっていくというわけです。
願望はオートパイロットで
どうも神様は“強欲な人”は好きじゃないのかもしれません。
神様を持ち出さなくても、エゴイスティックに己の欲望を追求する人は人間社会でも敬遠されるのは普通ですし、あまりに強く執着する人は視野が狭くなり、かえってうまくいかなくなることは珍しくありません。
そこで、手にいれたい望みや欲求・理想があるときは執着せず、強く追い求めないことが大切です。
「望みが叶ったらいいな。でも叶わなかったらそれはそれで構わない」
こんな風に。
願望という形で握りしめずふっと手放す。
すると「願望」は自由になり「実現」の領域へと飛んでいく。
願望を手元に置いておく限りそれはいつまでも「願望」のままであり続けます。つまり叶わないのです。強い執着や欲求がかえって実現を妨げてしまうのです。
だから、いったん理想(叶った状態)をイメージしたらそのことは忘れてしまうくらいがよいのです。でも無意識はそれを忘れることなく「実現」へ向けてあらゆる可能性を探り始めます。オートパイロットで目的地まで最短距離で飛ぶロケット(ミサイル)のようにです。
人間の無意識は頭で考えるより何十倍、何百倍も効率よく最適な行動を探り当て指示してくれるものです。
「気がついたら叶っていた」というのはそういう事情があるからです。
いったん(望みを)忘れることでそのイメージを無意識(意識下)に引き渡し、無意識に任せることで行動がより合理的(効率的)に調整されその結果ベストなタイミングで叶うということです。
ここで大事なことは、理想をいったん忘れたら後は目の前のことに全力投球するということです。
「これが何になるのだろう」とか「これをやったら果たして結果につながるのか」などと計算づくで行動したり「こんなことやってたら叶わないのでは……」と悩んだりしないことです。
これが何につながるのか分からなくても、目標(理想)と全く関係がないように思えるようと、とにかくいま目の前にあること・やるべきことに集中し、なるべく気持ちよくやること。それがコツです。
ハンターでなくともよい
多くの人は叶えたい理想や願望を「目標」に仕立て、実現するための方法や手段にフォーカスすることで肝心の「理想」そのものよりも方法・手段の方を目的にしてしまいます。
方法・手段が実現してしまうわけです。
これはまさに本末転倒といえるでしょう。
さらに必死で目標を追い求めることは、猟師と獲物の関係と等しく「追う者」と「追われる対象」の二元性を生み出してしまいます。
つまり追う者と追われるモノという二項対立の状態である限り、両者の融合(実現)はありません。
実現とはある意味で自分自身が願いそのものになることです。先に「実現状態」をイメージすると言いましたが、それはまさに自分がすでに「実現状態」にいることを意味します。
願いとの融合。すなわち願いを抱いたその瞬間に心の内では実現している状態ということです。
追う者と追われるモノ(理想)という二極においては、願いは常に「将来」という時間軸の先に追いやられてしまいます。
これがなかなか実現しない理由です。
分かりにくい言い方ですが、要するに願望とは遠くに目指すものではなく「すでに叶っていること」を確信して、目の前のことに集中し楽しく日々を過ごすことで「いつの間にか達成していた」と気づくものだということです。
ここまで読んで疑問に思う人もいるかもしれません。
「願望は強く願わなければ叶わないのでは? 成功法則の本などにもそう書いてあるし……」
「実際執着しても実現することもあるのでは?」
私もかつてはそう信じていました。強く願い必死で追い求めるからこそ実現するのだと。
そうでなければ努力や意欲、工夫することの意味もないのでは……と。
しかしそれはヘトヘトになる作業でした。エネルギーを消耗し、時には多くの人を巻き込んでギスギスすることもありました。そうして頑張っても叶うときもあれば叶わないときもある。勝率は良くて五分五分。下手をすると1対9くらいで負けることの方が多かった記憶があります。
確かに苦労して叶えば達成感は得られます。
その達成感に人々は病みつきになっているといえます。
しかしそれは、猟師が時に獲物を得るように達成しても次の獲物を探して巡る、終わりのない無限ループのような勝ち負けゲームの世界です。
願望にはカタチを求めず
今の私はそのような勝敗ゲームに巻き込まれることはほとんどなくなりました。
望みの世界を実現するために、ヘトヘトになる必要もなく闘って勝ち取る必要もないことに気づいたからです。
闘ったり追い求めたりすることはそうしないと手に入れられないのではという恐れがあるからです。
少なくともかつての私はそうでした。
特に現状に不安や不満があり、なんとかそれを取り除かなくては、問題を解決しなくては先に進めない、という「現状否定」からスタートするとうまくいかないことが多い。
そういう「恐れの気持ち」が焦りを誘発するからかもしれません。
恐れや心配はどうしても人をエゴイスティックにします。どんなに立派な理想を掲げても根底に「自分を守ろう」とするエゴが潜む限り実現は困難になるようです。
それに気づいてから私は、恐れや心配、不安や焦りをまず手放すよう務めました。
そこから徐々に物事はうまく展開し出した気がします。
そして自分の実現能力を信じ、無意識を信じ最終的には「何も心配ないのだ」という確信を得ることで、状況はスムースに流れ出したと感じます。(これらは全て根拠なく信じることが大切です。)
「気がついたら実現していた」というのは、自分の願いさえ忘れていたときに起こります。
「そういえばこんな現実が欲しかったよな」
と思い出す感じです。
不思議といえば不思議ですが、願う間もなく思いが叶っている状態ともいえます。
もちろん毎日がバラ色というわけではありません。仕事でもプライベートでも予期せぬ事態やトラブルがやってきます。感情が揺さぶられるようなこともあります。
しかし、それらをいろいろ意味づけたり関連づけたりせず、たとえうまく行かないように見えても「最終的には大丈夫」と大きな視点では安心していると、それらの「問題」も目標へ至るプロセス(途中経過)に過ぎないことが分かります。
そして「こうでなくちゃならない」と自分の「望みの形」にこだわらなければ結果的に、望み以上のモノ(当初の望みとは形は違うがより大きなモノ)が実現したりします。
だから願望実現には自力(エゴ)よりも他力(全体への信頼)というのが私の心境です。
それはつまりエゴで状況をコントロールするのではなく、自分と状況を一体化させ世界と調和するあり方でいることのほう願望実現の早道ということです。
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