最近仕事内容がバラエティに富んできたこともあり、世界史を教える機会がとんと少なくなりました。細かい知識は使っていないと忘れてしまいますから、今や年号などは生徒の方がよほど詳しく覚えていることでしょう。
そんなわけで、欠乏した「歴史分」を補給するために、何冊か本を読みました。中でも面白かったのが『日本史の謎は「地形」で解ける』 (PHP文庫) 。
従来は政治や経済という人間の営みを中心に描かれてきた歴史の因果関係を、地形や気候というより根本的な原因から再構築しようという意図で書かれた本です。たとえば、ある地方で反乱が起こったとき、従来であればその原因は“悪代官”の存在や“飢饉”に求められてきました。しかし、そもそもなぜ“悪代官”がはびこるのか、なぜ“飢饉”が起こるのか、と因果関係をさかのぼっていくと、そこには首都と地方の物理的距離や天候不順など、人間の力ではどうすることもできない基本条件のようなものに突き当たります。確かに現代の我々の日常を考えて見ても、ほとんどの出来事は自然条件を原因としています。2016年の日本の政治を論じるとき、2011年の震災の影響を勘案するのは必須でしょう。しかし、1000年後、2000年後の高校教科書にそれが書かれているかは疑問です。なぜなら、現在の教科書を見ても、自然条件についてはほとんど書かれていないからです。
このような地形・気候を重視する考え方は、現代の歴史学ではかなり前から当たり前のものになっていますが、私がそれを知ったのは大学に入ってからでした。高校までは“歴史イコール人間の営み”というイメージしかなく、おおざっぱに言えば“偉人伝の集合体”のように見ていました。
その結果、社会とのつながりを断たれた「地理」はつまらない教科ナンバーワンになってしまい、授業中は退屈しきりだった覚えがあります。中学校社会を全く教えなくなった今だからいえますが、教える立場になってからさえ、等高線の規則(主曲線・計曲線など)や地図記号など、「そもそもこれを覚えることに何の意味があるのだろう」と密かに思っていたほどです。
高校生を見ていると、クラスに一人か二人は必ず「地理博士」がいます。文系の大学入試は一般的に「日本史」「世界史」で受験しますが、彼らはあえて「地理」を選びます。私は不思議に思って彼らに地理が好きな理由を聞いてみます。するとみな口をそろえて「地理の先生の授業が面白かった」と言うのです。さらに聞いてみると、彼らが受けた授業では一様に、地図上の様々な知識と現実世界がどうリンクしているのか、その説明がなされていました。たとえば、等高線から何が分かるのか。地形の高低差や形状が分かります。それらが分かると、今度はそこにすむ人々の生活様式がなぜそのようであるのか、理由が分かります。さらに、そこにすむ人々の生活様式は、ほかの地域に住む人々との関係性を決定します。このように、地理上の無味乾燥な知識をスタート地点にして、歴史や文化にまでたどり着くというダイナミズムを生徒達は授業で学んでいました。
近年教育業界は「アクティブラーニング」一色です。この言葉自体定義が明確ではなく、様々なアプローチがありますが、その核になるのは「生徒主体の学習」。先生に一方的に講義されるのではなく、生徒達が自分で調べ、知を発見していく。確かにとても素晴らしいことです。
しかし、一歩間違うと形だけに終わる可能性があります。たとえば、生徒達に数人のグループを作らせ、自分たちの住む街の地形や特産品を調べさせ、発表させる。正直なところ、このような授業は「生徒が自由に調べた」という体裁を整えるだけに過ぎません。生徒達は自分が調べている知識が何に使えるのか全く分からないまま、ただ調べろと言われて調べているだけです。そこに待っているのはインターネット記事の丸写しです。
そんな結末を避けるためには、より大きな「地理」と「歴史」「公民(現代社会の姿)」の関係を生徒達に教えなければなりません。この基本的な「考え方」が定着して初めて生徒達は“考える”ようになります。自分たちの住む街はこのような地形をしている。だからこの地域に人が密集しているのか。さらに、こんな地形だからこれが産業になったんだな。すると、隣の地域との関係は? と、仮説を立ててそれを知識によって検証しようとするでしょう。
偉そうにつらつら書きましたが、自分自身そのような授業をできるのかと言われれば「できる」と断言はできません。素材選びにとても時間がかかりますし、生徒達のモチベーション維持の工夫も必要です。さらに、生徒の突拍子もない、しかし素晴らしい意見をうまくすくい上げるための準備も必要です。一言で言って、かかる時間と労力はとんでもないものになります。
上に述べたように、今後小・中・高の授業はアクティブラーニングに進んでいきます。これは素晴らしいことですが、これまで以上に授業のクオリティに大きな差が生まれる可能性は非常に高くなります。アクティブラーニング型の授業はこれまでの授業法と比して「ハイリスク・ハイリターン」ですから、“形だけアクティブラーニング”の授業など、もはや害悪に近いものといえるでしょう。
このような状況において、「害悪」を避け、子供に素晴らしい授業を受けさせることができるのは「親」だけです。これまでのような、学校に、あるいは塾に任せておけば最低限のことは教えてくれるだろう、という考え方はもはや通用しません。大人である親が子供の授業内容に興味を持ち、ある程度チェックしてやる必要があります。中学校、高校選びも、旧来の「大学合格実績」ではなく、授業のクオリティを重視したものにしなければなりません。しかし、数字で表れる合格実績と異なり、授業のクオリティは目に見えづらいものですから、様々な角度から、深い情報収集が必須になるでしょう。その意味では、親にとっては負担の重い2020年代になりそうですが、アクティブラーニングは「ハイリターン」です。選別に成功すれば素晴らしいリターンが待っていますので、是非チャレンジしてみてください。
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