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我が子は大丈夫だ

教育・子育て

我が子は大丈夫だ

あなたの子どもは大丈夫だ!

そう言われたら親としてどう感じるだろう。
「そうかウチの子は大丈夫か」と安心するだろうか。それとも「イヤイヤ、子どもの様子を見ているととても大丈夫とは思えない。」と反発するだろうか。

それでも「あなたの子は大丈夫だ」とくり返されたらどうだろう。

実は、子どものことで相談されると私の返答はおおむね「大丈夫だ」しか言わない(笑)。
当然ながら多くの親は納得できない。…多分。

「学校から帰ると毎日ダラダラしてなかなか勉強にとりかからないのです」
「大丈夫。やるときにはやりますよ」

「スマホやゲームばかりやってるけどいいのですか」
「トコトンやらせたらどうですか。そのうち飽きて他のことやるでしょう」

「計画的に勉強しないせいか成績が上がりません」
「私も計画的に行動しませんが何とかなるものですよ」

「いくら言っても宿題忘れが直りません」
「大丈夫です。先生に叱られるだけですから。」

「このまま行ったら入試も危ういし、後々困ると思うのですが」
「入試の結果と将来は関係ありませんよ」

「大変です。学校へ行かなくなりました!」
「大丈夫です。学校へ行かなくても死んだりしませんから」
とこんな調子。
私の返答は無責任に聞こえるかもしれません。

しかし私が親の皆さんに言いたいのは、子どもの細かい行状のいちいちを問題にしていたらキリがないということ。そして子どもの中に問題を見い出している自分の内面に何があるのか、なぜそれを問題と見て心配しているのか考えてみるべきだということ。

そうすれば子どもの「問題」も消えるだろうということ。それを伝えたいのです。

子どもの行状には親の心配が反映する

これまでも何度も話しているように、子どもを心配することで子どもの行動をプラスに変えることはできない。心配とは相手を信じていないことの表われだからだ。不信を前提にアレコレ言ったり策を練っても、たとえそれらが適切な行為であったとしても、子どもにとって「お前は信用できないから言うのだ」としか受け取れない。

理解すべきは子どもは自分の本心に「正直に反応している」だけであって、たとえそれが大人の眼には「とんでもない不利益」に映るようなことでも、それしかできない状態にあるということだ。親はそんな子どもの「今」を分かってあげるしかない。

この「分かってあげる」をしないで、説教したりなだめたりすかしたり、対策を講じたところで「お前はダメな奴」「信用できない」というマイナスのメッセージを子どもに送り続けることにしかならない。

確かに子どもが外で問題を起こしたり、不登校やイジメなど深刻な出来事に見舞われたりすると平静を保つことは難しい。しかし子どもには復元力がある。その力を信じて忍耐することも重要な親の責務だ。

責務といえば、子どもが不登校になると直ちにカウンセラーや心療内科(精神科)に連れて行ったりする親がいるが、これも考えものだと思っている。

親にしたら専門家に相談するほうが責任を課していると思うかも知れないが、連れて行かれる子どもの心を考えて欲しい。

「自分はそこまで重症なのか」「自分は社会のハミ出し者なのか」「自分はそこまで問題児なのか」という自己否定に駆られてしまう。「専門家(医者)に診てもらわなくてはいけないほどの重篤な人間なのだ」という思いだ。

こうして自らにレッテルを貼り本当に重症化してしまう。

私は専門家に相談するのが一律に間違っているとは思わない。ただ、そういうときの親の態度、心の状態が子どもにどう映っているか、それを振り返って欲しい。
子どもには、自分のために親が血相を変え右往左往しあげく夫婦ゲンカまでしている姿が目に入ったりする。するとそうさせている自分への罪悪感や絶望感がますます募り「症状」は一気に悪化してしまうケースもあるのだ。
現実にこういう状況を私は見てきた。

だからすぐに大騒ぎして対策を講じることはひかえ子どもの「今」をまずしっかり受け入れること。その上で本当にそれは問題なのかいま一度フラットな状態で問い直すことが大事だと思う。
何もしないと親として無責任ではないのかと自分を責めたりする必要はない。
親がアリバイ的に右往左往することのほうがよほど子どもの心に悪影響を及ぼしかねないからだ。

子どもの真実を知るのは親だけ

それよりも、なぜ子どもの行状を問題視し焦ったりイライラするのか親はよくよく考えたほうが良い。冒頭にも言ったように、子どもの中に「問題」を見い出してしまう自分の内面にこそ何らかの問題があるという見方である。

一つは世間体である。一般に良くない、あるいはこうすべきだという常識や思い込みにとらわれすぎている場合だ。子どもが道を踏み外しているのではないかと不安になって「世間並み」を子どもに強いていないか。大して根拠のない常識を規準に我が子の行動を判定するなら、後々子どもの独自性を発揮できなくする可能性がある。

世間や他人の思惑など気にする必要はなく、我が子のユニークな点、伸ばすべき個性に目を向ければ、それほどイライラする必要もないことが分かる。

二つめは親の心に無力感、自信のなさがあり、それを子どもに投影している場合だ。
現代は少子化、核家族化が進み昔のように子育てを地域で担うという風潮もない。
親は身近に子育てのアドバイスをしてくれる人もなく、果たして自分の子育ては正しいのか確信をもてないでいる。
子どもが問題を起こすと親に対する世間の眼も厳しい。
学校も昔のように教師が全責任をもつことはなく、面倒な問題ごとは「親のせい」にする傾向がある。

だから今どきの親は「正解」を求めて外側の権威や専門機関に頼ろうとするのだ。
しかしこれも先にも言ったようにあまり有効ではない。

なぜなら、子どもの「本当」をいちばん良く知っているのは親だからだ。専門家の言説をむやみに信じるのは最近の風潮だが、彼らは基本的に最悪のケースを想定してそれをどう防ぐかその「処方箋」を書くしかできない。さらに子どもの問題行動を一つの病理的見地から分析しようとする。つまり最初から子どもに「問題ありき」の態度なのだ。

だから親はもっと自分を信頼したほうが良い。「自分はちゃんと子育ての義務を果たしているのだろうか」という不安などもたなくてもよい。その年齢まで子どもを育ててきた自分に自信をもつべきだ。
振り返って欲しい。幼児期の頃、親であるあなたはどれほど子どもの成長に力を注いできたことか。子どもの全体像を一番よく知っているのはあなたではないか。

そう考えれば自分の中にある無力感や自信のなさには根拠のないことが分かる。細かい部分ばかり見て全体を見落としていないか。不足ばかり見て充足を見落としていないか。その上で子どもが「いまこういう現状だ」ということをアレコレ判断せずただ受け入れてみる。そうして、ニュートラルな気持ちで次のように言ってみよう。

「自分こそは子どものことを深く知っている存在だ。」「私は子どもの本当の姿を知っている。」「私はありのままの子どもを認めよう。」

子どもを心配したり不安がったり、思う通りにさせようとする前にこのニュートラルな位置から出発しよう。マイナス感情から出発して「良い結果」になることは何もない。
親は外側より自分の内側にある子どもの「真の姿」こそを信じて欲しい。

親の気づきが子どもを変える

親は「子どもの態度が○○だから心配なのだ」イライラするのだと言う。
これはつまり子どもに原因があり、結果として親の中に心配やイライラが発生するという話になる。
しかし実際は逆で、親の不安や心配というマイナス感情が子どもの「問題」となって浮上しているのだ。

確かに子どもは要領が悪く将来の得のために今を有効活用したりしないしわざわざ損なこと(大人の目から見て)をするかも知れない。しかしそう見えるのは大人が利害得失にとらわれた、合理的計算の思考回路に慣らされているからに他ならない。

たとえどんなに困ったことを子どもがしたとしても、それは本当に「困ったこと」なのか自分のハートに聞いてみよう。その「困ったこと」がなぜ起こっているのか理由は分からなくても、子どもにとってそれは必要だから起こっているのかも知れないと考えてみる。そして心配をやめてみる。すると子どもの行動も変わる。変わらなくても問題はないと考えることで結果的に変わるということ。ここがポイントになる。

私もかつて息子の困った行動に振り回されていたことがあった。何事もヤル気なく遊びほけ、せっかく入った高校もサボりがちで心配すればするほど、問題行動は加速するばかり。大学にも行かないと言う。やがて高3の暮れも押し迫ったある日、学校から「あと1日でも欠席したら退学させる」と通知された日、それが起こった。

「ダメだ。何を言っても聞かない。もうあきらめるしかない」と追いつめられた心境になった瞬間、息子の幼い時の情景が浮かび上がった。物覚えが良く教科書でも何でもスラスラ覚えてしまったり、元気に外で遊び回る姿などが脈絡なく浮かんだ。
そのとき不意に「息子は大丈夫だ!」という思い(言葉)が胸にわき起こった。息子の過去、現在、未来、その全体像が一瞬映像のように流れるとともに「大丈夫だ。ちゃんとやって行ける」という確信が起こった。

同時に私の中に「大学くらい行ってくれなくては」という親としての本音や「教育に従事する自分の息子がこんな姿では…」という世間体を気にする感情がずっとあったことに気づいた。

さらに私は自問した。たとえ息子が大学へ行かないとして私は息子を愛さないといえるのか。答えは「ノー」だった。
大学を出ていようがいまいが息子は息子だ。息子に対する愛情はいささかも減ることはない。
当り前の話だが私には新鮮な気づき、発見だった。

すると息子の問題は私の中にある世間の常識(ルール)や、親としてのエゴイズムがそのように見させていた、あるいは加速させていただけだったと気づいた。
困った奴だと決めつけていたこと自体が「困った行動」を顕在化させていたということだ。

気づいてみれば、あっけないほど私の肩の荷が降りて例えようもない安心感がやって来た。それはムリヤリ息子を「信じよう」というような気合の入ったものではない。ただただ「な~んだ。そうだったのか。問題などなかったのだ。大丈夫だ」という安どの思いだった。

ところが不思議なことに、私がそう変わった直後息子の態度が急変した。突然大学へ行くと言い出し私のそばで勉強させてくれと言う。(当時は事情があって息子と離れて暮らしていた)もちろん学校にもきちんと通い猛烈に勉強し始めた。しかし入試まであとわずか。時間切れかと思われたが、何とか合格してくれた。

私の息子のような例は決して珍しくない。大事なことは親自身の気づきにある。親が子どもの真の姿、ありのままの姿を認めることで子どもの「問題」も消えるということ。親が世間の常識や思惑に迷わされず、また不足部分ばかりに目を奪われずトータル(全体)としての子どもを肯定すれば、自ずと子どもは自分の進むべき道を見い出すということだ。

しかし子どもを良い方向に行かせるために子どもを認めようとしても何も変わらない。それではコントロール欲求から一歩も外れていないからだ。

あくまで純粋に子どもを認めるのでなくてはならない。ここが難しいかも知れない。
私の場合、追いつめられあきらめたときそれが起こった。
だからある程度親は悩む必要があるのかも知れない。悩んだ末に子どもを手放した瞬間にそれは起こるものだといえるからだ。

でも最初から「自分の子どもは大丈夫だ」と唱え続けることをお勧めする。私のように遠回りする必要はない。

最後に

いま子どものことで悩んでいる親がいたらこう言いたい。

悩むだけ悩んでください。いまは悩む時期なのでしょうから。しかしそれは子どもに「問題」があるからではない。そうではなく、今が親であるあなたが子どものことで悩む「時期」であるということ、つまりあなたにとっていま悩むということが必要なのだということ。
どう必要かは知らない。知らないけどきっとあなたとお子さんの人生にとってそれが必要だから起こっているということです。
それは後になって「ああ、そういうことか」と必ず分かる時が来ます。

そして思うでしょう。私の子どもは最初から大丈夫だったと。

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