私たちはつい他人にレッテルを貼って「彼はこういう人だ」と決めつけがちだ。これは他者をカテゴライズすることで「安心」を得たいとする心理が働くからだ。
先日、とある高校で先生方と「勉強の教え方」について討論したときのこと。
1人のベテラン教師が「あいつらしようがない連中だ。ロクに字も読めないんだから」とグチとも嘲笑ともつかぬ調子で言う。
「しかも読めないだけでなく、勝手に字まで作っちゃうんだから」「そうそう造語というか別の意味で創造性発揮してるというか…」
他の先生方も呼応して生徒の「ダメかげん」をあげつらい始めた。
こう書くと先生たちが一方的に生徒をコキおろしているように聞こえるかも知れないが、そうではない。むしろ、いかに「出来ない」子たちと日々格闘しているか。自分たちの仕事の大変さを語り合うことでお互いの共感を深めている趣があった。
これはよくあることで私にも覚えがある。
いくら教えても飲み込みの悪い子や、宿題をやってこない子などに「しょうがないな~まったく」など、講師同士ではよく交わす言葉だからだ。
しかし、それでも生徒にレッテルを貼っていることに変わりはない。不出来な奴というレッテルを貼ることで「俺たちは一生懸命やっているが、ああまで出来ないのだから仕方ない」とどこか自分の責任を回避し、安心を得ていることは明白だった。
レッテルを貼って「○○はこういう人」と決めつけることは実は誰でも日常的にやっている。「有名大卒だから優秀」「金持ちだからと鼻にかけている」「政治家だからウソつき」等々。
こうしたレッテル貼りは、手っ取り早く相手を自分の知っている範疇に落とし込み「分かったつもり」になるには便利なツールである。
何しろ深く考えずにすむ。さっさとレッテルを貼って理解したつもりになれたら楽だ。
しかし当然ながら便利なものには反作用がある。レッテルが「あの子は金髪でピアスだから不良」程度なら大して問題はないが、これが人種や国籍、男女の違い、特定の職業や障害の有無に至ればたちまち「偏見」となって様々なあつれき、紛争の原因になりかねないからだ。
安易なレッテル貼りは思わぬ危険を招きかねない。
レッテルを貼ることで可能性を閉ざす
そして何より恐いのは自分に対するレッテル貼りではないだろうか。
他者にすぐレッテルを貼ってしまう人は、当然自分にもレッテルを貼っていることが多い。
「自分は昔から○○ができない人間だ」
「自分は良い学校を出ていないから大した職にはつけない」
これは一見自己評価が低い人と思われがちだが、自分に特定のレッテルを貼ることで自ら可能性をせばめているといえる。わざわざ自分を狭いオリに閉じ込めているのだ。
逆に「ポジティブなレッテル」が災いすることもある。
「自分は有名大を出たから優秀なはず」と思い「それなのに正当に評価されていない」と会社などでの自分の処遇に不満を持つ人。
こういう人は自分に貼りつけたレッテルにしがみついて一生を不満のうちに過ごすことになりかねない。(私はこんな人をたくさん見てきた。)
どちらにしても(ポジティブでもネガティブでも)レッテルを貼ることで、深く自分を掘り下げず自らの可能性を追究することもなく「不平不満」を抱えて生きていくことになる。
だから安易なレッテル貼りは危険と知って、もし自らにレッテルを貼っているならそれをはがすことが大事なのだ。
だが、この作業はそんなに簡単ではない。というのも社会や他人から貼られてしまったレッテルにはなかなか気づかないからだ。
特にある種の「権威」から貼られた場合には。
たとえば病院。私たちが体の異変を感じて医師の許に行き病名を告げられた瞬間を考えて欲しい。そのとき私たちは「立派な患者」となるのではないか。
私事だが数年前、私は右目に異常を発見し眼科を訪れた。診断は「ブドウ膜炎」。診断がつくと治療が始まる。お決まりのステロイド注入が施されその他検査も続くが改善せず。
そこで近くの大学病院を紹介され本格的に治療が続くも改善せず。
そのうち左目にも異常が現れ何と網膜が剥離しかかっていると言う。そこでレーザーを当てる、これまた辛い治療。やっと少し改善したところで右目の網膜もはがれかかっていることが判明。
私はこの間疲れ果てていた。すっかり「眼病患者」になっていたのだ。
「もう目は見えなくなってしまうのか」
私は不安を抱え医者に「私の目は治りますか?」と尋ねた。医者は即座に「治りません」と答えた。
そこでようやく私は気づいた。自分があまりに「患者」になっているということ。患者になっていることで益々私の身体が病人としてふるまっているのではないかということ。
「もう医者(医療)に頼るのはやめよう」
そう決意してから私の目は急速に改善していった。
レッテルをはがすことで真実を見る
私は病院や医者を信用するなと言っているのではない。また治療行為を否定しているのでもないし、心の持ち方次第で病気が治ると主張したいのでもない。
そうではなく私自身が病名をつけられただけで、自らに病人のレッテルを貼り過剰に「患者」としてふるまっていたことがかえって病気からの回復を遅らせたことに気づいたということ。だからそのレッテルをはがせば、回復の可能性に道を開いたということになり、本来の自己治癒力を取り戻すことになったのだろうということだ。
この経験で私が学んだことは、医師(権威者)からレッテルを貼られたことで患者も自らを「病人」と認定しそのレッテルを益々強固にしてしまうということだ。こうして患者は益々「病人らしく」なる。つまり病気が自らのアイデンティティになるわけだ。そうなると身体が本来持っている自然治癒力が発揮されにくくなる。
私の場合幸いにも医師の「治らない」という言葉が、私の深い所にある「回復への力強い欲求」を目覚めさせ自ら貼りつけていた「眼病患者」というレッテルに気づくことができた。気づけばレッテルははがれ「治癒力」が解放される。
もちろん医師と患者の話はひとつの例に過ぎない。
上司と部下。先生と生徒。警察と犯罪者。企業と顧客。政府と国民。
至るところに私たちは相手にレッテルを貼ることで、対象をステレオタイプに分類し真の姿を見失っている。
だから私たちは容易に相手にレッテルを貼って「分かったつもり」になることをやめなければならない。
レッテル貼りは決して「理解」につながらない。むしろ危険であることを知り、内なるレッテル貼りの衝動を見逃さないよう注意深くあるべきだ。
私たちは日頃から無意識に何でもかんでもレッテルを貼っている。その心理の背景には、安心を求めレッテルを貼ることで「未知」を「既知」に変えたい欲求があるからだ。
しかしそれでは真実は見えて来ない。
それならどうするのか。
自分を解放する
まず、自分が他者や物事にレッテルを貼って見ていることをきちんと認識すること。ここから出発するしかない。
「レッテル貼りはいけない」と言うと誰もがそうだとうなずくが分かっていない。この世に生きている限り誰もがレッテル越しに物事を見ているのは、冒頭の教師や医師と患者の例などでも十分明らかな事実だからだ。
自分は他者、状況、出来事、取りまく環境の多くにレッテルを貼り表面的にしか見ていないと自覚した上で、日常のささいなことからレッテルをはがすよう努めることが大事だ。
そうすると自分がいかに世間の常識や固定的な見方で物事を見ていたか気づく。
それは結構楽しい作業だったりする。
まず第1に物事や他者の姿が明瞭になり生き生きと迫って来る。世界が色彩を帯び明るくなったような気になる。
第2にレッテルをはがせば全体像が見えてくる。他人ならその人の表面や部分だけでなくより深い内面に触れることで、それまで決めつけていたこちらの思い込みが修正され相手をトータルに理解することができるのだ。
つい先日犬を散歩させようと繁華街を歩いていると、若者たちが寄って来た。犬をなでたいと言うので許可すると、彼らはしゃがんで触り始めた。犬が好きらしい。
彼らは近くの飲食店のいわゆる「呼び込み」と称される若者たち。
正直に告白すると私は日頃彼らを疎ましく思っていた。彼らの風体やなりわい、道行く人を獲物のように誘い込む行為に嫌悪し、彼らの存在自体が街の美観を損ねている感じがしたからだ。
不良?ヤンキー?いずれにしてもレールを外れた若者たち。私は彼らにそんなレッテルを無意識に貼っていたのだ。
しかしいま、一心に犬をなでている青年たちの姿を見ていると私の中で何かがはがれ落ちた。
「犬好き?」「かわいっすよねえ」
こうして言葉を交わしレッテルを少しずつ外してみると、彼らの優しさや純心さ、そして繊細さが伝わってくる。むしろ繊細だからこそレールにうまく乗れないことも分かってくる。
私は何とも形容しがたい暖かな気持ちに包まれた。それは彼らの優しさや意外な礼儀正しさに触れたからだけではない。
もちろん「人を外見で判断してはいけない」という薄っぺらな話でもない。
愛犬がほめられて嬉しいという話でもない。
それはレッテルをはがすことで私自身が自分の囚われから解放されたという、いわば自由の感覚である。
他者にレッテルを貼ることで相手の真実を見ようとせず、自分の視点拡大の可能性を閉ざしていた、その狭い領域からの解放感である。
つまり救われたのは彼らではなく私自身だったのだ。
こうしてレッテルを外してニュートラルな視点をもつこと。それは他者を真に理解し、自らの可能性の扉を開くと同時に自由と豊かさの感覚をもたらしてくれるものなのだ。
まず身の回りのささいなことから始めてみよう。
日頃見慣れた家族の姿。会社の同僚や取引先の人たち、道端に咲く花。イヤ味な上司。それぞれが生き生きとした新しい姿で迫って来るかも知れない。
「今までなぜ気づかなかったのだろう」
しかしそれこそが「彼ら」の本当の姿であり、あなたが見ようとしてこなかった真なる輝きなのだ。
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