教育研究所ARCS

若いとき優秀でもベテランになると無能になるワケ

教育・子育て

若いとき優秀でもベテランになると無能になるワケ

以前の記事でも触れましたが、最近若い学校の先生たちと交流する機会が増えました。
20代~30代前半の先生たちと話すとこちらも刺激を受け、色々啓発されることも多く私も彼らに負けていられないという思いを強くします。

ところで彼らとの会話で一つ気になることがあります。
それは彼ら若手教師が全体に、学校のベテラン教師たち(40代以上)に不信感を持っているということ。ベテラン教師たちが保守的でチャレンジ精神が欠如していることにイラ立っているということです。

「ヤル気に乏しい」「自分の考えに固執してこちらの考えを受け入れようとしない」「新しい方針が決まったのに実行しない」「本当に生徒のことを考えているのか」…等々。

実はコレ、どの学校でも若手教師から出てくる言葉なのですね。

これは単純に世代間の断絶なのかと思いがちですがそうではなく、ベテラン教師たちも若いころは同じように「年輩教師は保守的でヤル気がない」と感じていたというところに根の深さがあります。

私にも同じ経験があります。20代のころいくつかの高校で非常勤講師をやっていて、どこでも40代以上のベテラン教師たちの「ヤル気のなさ」に怒りとも失望ともつかぬ思いを抱かされたものです。

彼らには生徒の成績向上などどうでも良いことのようでした。私が高校をやめたのも直接的には彼ら老教師たちのヤル気のなさのためでした。
ですから若い先生たちが嘆く気持ちは良く分かるのです。と同時に下手をすれば彼ら若手教師もやがてはヤル気のないベテランと同じになってしまうという危惧も持っています。

ただベテランの悪口を言い、グチるだけでは同じテツを踏むことになりかねない。そうならないためにはどうするか。

実は若手とベテランの間に横たわる、意欲や向上心、情熱やチャレンジ精神の有無についての問題は学校だけにあるわけでなく、企業や役所などあらゆる分野で生じている問題ではないでしょうか。

若いとき意欲的で優秀だった人がなぜ無能になるのか?

(無能という言葉は少々キツい響きですが、以前ビジネスマン向けの本でこのようなタイトルを見たのでそのまま拝借します)

私もかつて悩んだこの問題。ちょっと掘り下げて考えてみることにします。

常に「改善」する努力

これに関してちょっと面白い本を最近見つけました。
タイトルは「超一流になるのは才能か努力か?」というもので、著者はフロリダ州立大学のアンダース・エリクソンという心理学教授。

この本のユニークなところは、特定の分野に限らずスポーツ、芸術、学問さらにチェスなどのゲームに至るまであらゆる分野で卓越した能力を発揮する人たちを調査し、それらの技能を向上するための一般原則を導き出しているところなのです。

つまり、どんな分野であれ「傑出したプレーヤー」を育てるにはある一つの訓練方法があり、彼はそのアプローチを「限界的練習」と名づけているのです。

詳しくは本書を読んでいただくとして、彼の提唱する「限界的練習」の大まかな要素は「目的を持つこと」「コンフォートゾーン(居心地の良い領域)から飛び出すこと」「集中力」「達成するための計画」「フィードバック」と「モニタリング」、そして面白いのは「心的イメージを描くこと」だと言う。

確かにこの「心的イメージ」というのは重要かも知れません。私の経験でも、ただひたすら努力する―反復練習ばかりする―人たちより、あらかじめやろうとしていることの可能性を明確にイメージする人の方がパフォーマンスは高いといえます。

しかし、私がこの本で最も興味をひかれたのは次の点です。

1. 人が自分の能力を向上し続けるためには一定のレベルまで上達したら、そのレベルすなわちコンフォートゾーン(心地よい場所)に止まるのではなく常にその限界を超えるよう努力すること。
(そのためには新たな方法に挑戦しミスしてもフィードバックにより修正することで前進しなければならない)

2. 1つの分野で高いスキルを身につける方法を究めれば、同じことを他の分野にも応用して2つ3つの専門分野を修得でき、これからの時代はそれが必要であるということ。

私が注目したのは1のほう、常に自己を向上させるにはどうすれば良いのかという点です。なぜなら多くの人は若いときにいったん身につけた技能を、その後磨くことなく衰えさせているのではないかと感じているからです。

エリクソン教授はこのことを以下のように説明しています。

「(一定の)パフォーマンスレベルに達し、自然にできるようになってしまうと、そこから何年練習を続けても向上につながらないことが研究によって示されている。むしろ20年の経験がある医者、教師あるいはドライバーは、5年しか経験がない人よりやや技能が劣っている可能性が高い…。」(同書p42)

その理由として「自然にできるようになってしまった能力は、改善に向けた意識的な努力をしないと徐々に劣化していくためだ」と言っています。

改善に向けた意識的な努力!まさにベテランでくすぶっている人たちに欠けているものはこれなのです。

同じことを続けるとレベルダウンする

エリクソン教授の言う、意識的な改善の努力。これこそが能力の劣化を防ぐ重要なポイントであり、進化していくかそれとも劣化してダメになるかを決定づける分水嶺となるのです。

私の経験でも若いとき有能と目されたのに、40を過ぎる頃になると急激に能力が低下しやがてヤル気を失くす人をたくさん見てきました。

これらの人に共通するのは、若い時はさしたる努力をしなくても一定レベルに人より早く到達し、その後そのレベルを向上させる努力を怠っている点です。

人は20代から30代にかけては、一生懸命仕事を覚え技能も上達するのが普通です。そこで「俺も一人前になった」とふと安心し、それ以上向上しようという意欲が薄れてくるときが危険信号なのです。

仮に1度身につけた技能が、その後もずっとその水準を保ち続けるならそれでも良いのかもしれませんが、実際はそうならずエリクソンの言うように若いときよりレベルダウンするのが常だからです。

要するに若いときに出来ていたことさえ出来なくなるということです。

これを避けるには「改善の努力」が必要ということですが、「改善」とか「努力」という言葉を聞くと何か大変な労力を思い浮かべてしまうかもしれません。重く受け取ってしまうかもしれません。

でも私は「改善の努力」はそんなに大変なことだとは感じていません。
確かにその分野で超一流の達人になろうとするなら、エリクソンの言うように「限界的練習」が有効なのかもしれませんが、自分の才能を涸渇させず少しでも進歩させながら充実した人生を歩むためだけなら、少しの努力、少しの改善で十分だと思うからです。

3つだけポイントを述べてみます。

1. いつも決まりきったパターンを変えてみる
2. 他のやり方を試す
3. 新しい分野、領域に挑戦してみる

1と2は誰でも分かります。「もっと効率をよくしよう」「もっと組織のためになるにはどうすれば」など工夫する努力をすることで「改善」は進んでいきます。
3については説明の必要があると思うので、私の経験に基づいてお話しします。

欲求の命ずるまま動く

私の20~30代は高校教師そして塾の経営と、教育関係の仕事一筋できたわけですが30代後半になると行き詰まりを感じるようになりました。
幸い塾の規模も大きくなり外見的には成功しているように見えたかも知れませんが、私自身は毎日が同じことの繰り返しで成長している実感がありませんでした。

そこで始めたのが心理学の勉強でした。なぜ心理学なのか本当のところよく分かりませんでしたが、とにかくフロイトやユングから始めてアドラー、シュタイナー最新の心理学に至る知識を求めて乱読しました。
一方で経営の勉強のために大学の「起業家養成講座」にも通ったりしました。

やがて私の読書欲求は心理学にとどまらず、哲学や宗教さらには量子力学などの物理科学の分野まで拡大して行きました。

こう書くとさも勉強熱心に聞こえますが、私としては自分の内部から湧き上がる欲求の命ずるまま乱読していたという感じです。それが「何の役に立つか」「これが将来どうつながるか」といったことには全く関心がなかったのです。

ただ、それまでやみくもに感覚と体験でしかなかったものが客観的にあるいは理論的に理解できるようにはなったのかも知れません。
それまで自分がやってきたこと―うまくいったことや失敗したこと―などを俯瞰して見えるようになった。視野が広がった気はします。

同時に自分は色々なことにいかに無知であったか。分かっているつもりのことでも本当に深くは理解していなかったということを知ることができたと思います。

こうして私の「勉強」は40代過ぎまで10年に渡りましたが、並行して仕事の方も「生徒に教えるだけ」から親のあり方を説く「講演やセミナー活動」へ自然とシフトして行きました。

そして最近、学校から先生の研修を依頼されたり、学校の改革のために公的な機関からも助言を求められるようになり、ようやく私は気がついたのです。

30代後半から何かにとりつかれたように始めた乱読や勉強。それが今の私の「仕事」につながっているということ。

「ここにつながっていたのか!!」
というのが私のいまの偽らざる実感です。

私の場合、エリクソンの言うように「意識的な改善の努力」というほどのものではなく、ただ停滞し壁に当たっていた自分をどうにかしたくてアレコレさまよっていただけかも知れません。要するに内的欲求に従っていただけです。

だから私の場合は「意識的改善ではなく」、「無意識的改善」と言うべきかも知れません。

未知の領域こそ可能性の宝庫

私の経験から言えることは次のようなことです。

1. 優秀な人ほど改善する必要性を自覚しないことが多い。
2. 40前後にいったん技能はピークに達する。そのときどれだけ自分を向上させるよう工夫できるかがポイント。
3. 一見仕事(専門領域)と関係ない分野でも興味がわいたらやってみる

そして「改善」へ踏み出せない人は、自分が「古い領域にとどまっているのが安全」と信じ込んでいないか省みて欲しいと思います。

未知の領域に飛び込むことは少し勇気がいるかも知れませんが、必ずその恩恵は次へのステップとなって返ってきます。

「改善」は大げさに考える必要はありません。今までのやり方を少し変えるだけでもオッケーです。

「もう少し工夫できないか」「どうしたら自分はもっとたくさんの人の役に立てられるか」

そのように考えるだけで、多くの可能性が見えてきます。
その時、心の中で「こうしたい」とわいてきた欲求があればぜひその「心の声」に従ってみて下さい。

今までなじみのなかった方法、分野であっても「やってみると面白いかも知れない」という思いだけでもやる価値があるものです。
「これをしてどうなる?」「これをしたら将来につながるのか」といった表面的利害で行動するのでなく、純粋に好奇の感情で動いてみることが大事ではないかと感じています。

自分が慣れ親しんだ分野(領域)に閉じこもることは、居心地が良く安全と感じられるかも知れませんがそれは実は「制限の檻」ではないか。そう反省してみることが大事です。

新しい領域にチャレンジすることは無謀なのではなく、自分の中の可能性に心を開くことであり、その可能性に向かって自己を刷新し続ける姿勢は若い人たちにも必ず良きお手本となり敬意を持たれるでしょう。

最後にいつも生徒に言っている言葉を贈りたいと思います。

人は自分が考えているより大きな可能性を秘めています。だからその可能性を信じて常にチャレンジしていきましょう。

2,952 views

今後のご案内

開催日: 2024年12月15日(日)

大人のためのオモシロ教養講座 12/15㈰開校

大人だからこそ楽しく学べる! 子どもとの会話も弾む! 新しい出会いも生まれる! 子育て・仕事に励みながらも自分だけの学ぶ喜びを感じる空間。 そんな学びの場があれ…

お悩み相談室

子供に「だんだん苦手な教科が出てきたが、どこがわからないのかがわからない」と言われた

子供に「だんだん苦手な教科が出てきたが、どこがわからないのかがわからない」と言われた

最初から核心を書いてしまうと、この台詞には二つの意味があります。一つ目は「(ある単元、分野の説明を)一回聞いたが頭がこんがらがったので、(面倒くさいから)あきら…

中学受験が子どもをダメにする

「本当の学力」を望むなら、親は思い込みを捨てなさい。

ついに管野所長の書籍が発売となりました。講師歴35年以上、長年の教育実践の経験を1冊の本にまとめました。中学受験を検討中の方、子どもに本当の学力を望む方はぜひ読んでいただきたい書籍となっています。

ご購入・Amazonレビューはこちら

コメントはお気軽にどうぞ

メールアドレスは公開されませんのでご安心ください。
また、* が付いている欄は必須項目となりますので、必ずご記入をお願いします。

内容に問題なければ、下記の「コメントを送信する」ボタンを押してください。

CAPTCHA