最近重たいお話が続いていたので、今回はちょっと軽めに。
私事ですが、4月の終わりに千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館に行ってきました。職業柄西洋史は大好きですが、実は日本史にはあまり興味がないため、日本の博物館に行くことはまれです。しかし、今回ばかりはお目当ての企画展示がありました。その名も「万年筆の生活誌」。
この企画展、日本近代の知的生活を支えた万年筆を軸に、我々の「書く」という営みの意義を問うというおもしろいテーマ設定です。実際に見に行ってみると、会場もそこそこ大きく、歴史的に貴重な万年筆が大量に並べられていました。夏目漱石が使用した実際の万年筆や日本に輸入された最初期の万年筆など、由来を知ると感慨深い展示品が目白押しで、気がつけば閉館寸前まで居座ってしまいました。
しかし、そんな貴重な万年筆の山の中でひときわ興味を引かれたのは、実は万年筆本体ではなく、「万年筆で書かれた講義ノート」でした。大学の講義中、教授が口述した内容をひたすら速記したとおぼしきそれは、豆粒のような字でびっしりと紙面が埋められています。書かれてから100年以上経ち、紙は茶色に変色していますが、その筆跡は生き生きとして、時代を超えて書かれた当時の強烈な熱気を感じさせてくれました。ノートの脇にある説明書きには、当時の大学の講義法が書かれています。曰く、当時の大学では、教授はほとんど板書をすることはなく、自分で作った講義ノートを時間いっぱい延々と読み続けていたそうです。生徒たちは黙々と先生の言葉を一言一句写し続けるのみ。腱鞘炎を患いそうな苦行の結実が、展示物となっているノートなのです。
このように書くと、当時の授業はなんとひどいものだったのかと思われるかもしれません。近年はやりのアクティブラーニングとはまさに対極をなす、詰め込み教育の権化のようです。そんなことだから日本はクリエイティブな人材が育たないのだ。欧米の猿まねに過ぎなかった。明治以降の学問はすべて輸入品だ。そう言われてしまいそうですが、実はこの授業法、欧米の大学でも当たり前のことでした。しかも、このような講義形式であったが故に、腱鞘炎をこらえて(?)筆写した学生がいたが故に、人類の至宝とも言って良い講義録が多数出版されています。実際に、ヘーゲルやソシュールの講義録などは大げさではなく、現代の社会の成り立ちに直結する凄まじい影響を全方位に及ぼしています。
もちろんこれは、コピーもPCもない時代、苦肉の策で行われていたやり方なのでしょう。現代であれば、より洗練された授業はいくらでも可能です。しかし、この授業法の本質である、「教授の考えを丸々受け取る」という部分については、現代においても十分意味があるものなのではないかと思います。自分の意見を考え、発表することが重要であるのは当然ですが、最近「聞くこと」「理解すること」の意義がどんどん忘れられているように感じるのです。自分の意見や発想は、土台にしっかりした知識と思考法がなければ、あっさりと「思いつき」に堕してしまいます。時には無心に教授の言葉を筆写し頭の中に丸呑みする経験も、時には必要でしょう。
そんなこんなで最終的に教育の話に結びつけてしまうあたり、職業病の存在を自覚した企画展でした。
余談ですが、私も万年筆愛用者です。目覚めたのは大学受験期。文系の受験生として大量の英文と日本語小論文を書く必要があったため、手を痛めず素早く書ける筆記具を探した末にたどり着きました。慣れるまでは大変でしたが、一度慣れるとその書き味が快感になり、それまでは億劫だった英単語暗記も古語単語暗記も、万年筆で書きたいが故にがんばった記憶があります。
書くのが嫌いな学生の皆さんは、ぜひだまされたと思って使ってみてください。うまくいけば、暗記もノート書きも楽しくなりますよ!
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