自分らしくある。自分らしく生きる。
このことを難しいと感じている人が多いようです。その理由はよく分かります。
私たちは多くの「顔」を使い分けて生活しています。子どもに対しては親としての顔をもち、妻に対しては夫の顔をもつ。
職場でも対人関係があり、部下に対しては上司、上司に対しては部下、仲間うちでもそれなりの仮面をつけている。
私は人が場に応じて多くの顔を使い分けることが悪いと言っているのではありません。
子どもじゃあるまいし一定の年齢になれば、複数の顔(仮面)を使い分けるのは、社会生活を円滑に送る上で当たり前のことだからです。マナーと言っても良いでしょう。
ただ、私たち日本人が自らに複数の仮面をつけるときその動機があまりに「他者を意識した」ものであること。他者が期待するであろう振る舞い、言動を想定しその想定に支配されすぎていることがかえって状況を悪化させている点を指摘したいのです。
私たちの多くは自分らしく振る舞うことに罪悪感を感じがちです。ワガママだ、自己中心的だといわれることを極度に恐れています。
これは幼い頃から「自分勝手はいけない」「皆に迷惑がかかる」「○○ちゃんを見習いなさい」などと自由を制約されているからでさらに学校に上がれば、集団的行動を教えられ個性を発揮すれば「空気が読めない奴」と仲間うちからも排除されたりするからです。
親や教師あるいは学校集団を通じて私たちはいわばシステマテックに「自己規制」を教えこまれているわけです。
自己規制は社会的損失
さてここまではよく指摘される「日本人の性向」なので目新しい話ではありません。
問題は私たちの「他者を意識した」自己規制が、単に表面的な振る舞いにとどまらず能力それ自体を発揮させなくしてしまっている点です。他者の期待に応えよう、ワガママと思われないようにしよう、変な奴と判断されたくないと思うあまり、つまり自己を守ろうとするあまり肝心の自分の才能の芽までつんでしまっている。
そしていつも不満や不安、焦燥にとらわれ充実感や幸福感が希薄でいること。それは個人の人生としてもまた本来社会へ貢献できるはずだった才能の発現という点でも大いなる損失ではないかと感じています。
それは「他人の人生」を生きているからであり「自分の人生」を生きていないということです。
自分の能力や才能を知ってそれを伸ばす。
このことに異を唱える人はいないでしょう。
しかし、いざ我が子が個性的な道を歩もうとすれば多くの親は心配し、「そんな分野では食っていけない。もっと堅実な道を・・・」などと断念させるのです。
「個性が大事」「夢をもって生きよ」そう言うわりにそのような生き方を許す風土は実際には見られない。
結果社会に出ても周囲の顔色ばかりうかがい自己を押し殺して生きるのが当り前のようになっている。気がつけば若かりし頃の才能は日常の埃に埋もれ然したる貢献もなく、ただ大過なく勤め上げるだけが目的の老残の日々・・・となりかねない。
こういうところにも現在の我が国の活力のなさがうかがえる気がします。
まず本音を語ることから始めよ
さて自分の才能を活かして生きることは個人の幸福であり社会貢献です。
才能を伸ばすためには自分らしく生きることを自分に許すことが前提となります。
若い人と話すとよく「自分は何をしたいのか分からない」「自分の才能が分からない」と言います。はなはだしいのは「そもそも自分に何らかの才能があるとは信じられない」ということです。
何と悲しいことでしょう。これは若い人に限りません。他者の顔色ばかりうかがって本音を押し殺していると自分が「本当は何をしたいのか」「どんな能力、特性があるのか(あったのか)」分からなくなります。
こうならないうちに、つまり子どもの頃に本当は「自分らしさ」を認められることが必要ですが、社会人になってからあるいは年齢がいってからでも生き方を変えることは実は可能です。
まず以下の3点を実行すればよいのです。
1、他者を気にせず本音を言う
2、イヤなことをやらない
3、人生は自分が創造しているという自覚をもつ
前回の記事で「教頭的あり方」ということについて話しました。上司(校長)や周囲に配慮するあまり本音を言わず陰うつになる人の話です。
集団において私たちは本音を吐露したり、自分らしさを出すことは不利になると恐れ強く自分の意思を抑圧しがちです。
しかし実は反対で本音を出さないからこそ疑われたり、憶測されたりして益々苦境におちいることのほうが断然多いのです。そして攻撃されると益々本音を閉じこめるという悪循環にはまってしまうのです。
たとえば多くの人は「分からない」とか「苦しい」など本音をもらすことは敗北だと感じてしまいます。「この仕事は自分ひとりでは苦しいので助けて下さい」などと言うと、「ダメな奴」と思われるのではないかと怖れ、結果としてガマンし一人で抱えこんだりします。
そんなムリをしている状況は案外周囲には明らかですが、ガンバっている以上手助けはできません。
そんなときは思い切って本音を言えば周囲は温かく協力したりするものです。
本音と弱音は違います。本音とは甘えることでもズケズケ他者を批判することでもなく、全体のために今自分はどうあるべきかその役割に徹しているときに出てくる真なる「思い」のことです。真なる思いは必ず人の心に響きます。たとえその思いが多くの人と違っていても保身のためではなく、常に全体を活かすための切なる思いである限りちゃんと伝わるものです。たとえその本音が通らなかったとしても何も問題はありません。
要するにエゴからではなく、全体のためであるときつまり私心なき本音を言ったことは自分にとって誇れるものだからです。
「本音を言ったのに聞いてもらえなかった」と残念がるのはまだ私心(エゴ)があるからです。
何より日頃から本音を言う習慣があれば、やがて人々は「あいつの言うことは公正だ」と認めるようになります。そして結果として上司も認めます。
実は本音で生きるほうが、本音を隠して他人の顔色をうかがって生きるよりずっと楽だし得なのです。そう思えないのは本音で生きてないからです。
やってみれば分かります。考えるよりずっと簡単です。規準は常に「全体の利益」に置くことにあります。
自分を輝かせて人生を創造する
次に2の「イヤなことはやらない」ですが、もちろん仕事などにおいては気の進まないことや苦手なこともやらざるを得ません。特に新人なら何でもひと通りは進んでやるべきです。
しかし、多くの分野をこなすうち得意なものと苦手なものが明確になります。私の場合は昔から書類を書いたり管理することは苦手でした。だからそういう仕事はドンドン人にやってもらうことにしたのです。その代り対外交渉であるとか、大勢の人たちに説明したり全体を見渡して迅速に決断するなどは得意なのでその役割は一手に引き受けました。
つまり「苦手」はやらず「得意」に特化することで全体はスムーズに回り、各々の得意にさらに磨きがかかることになるわけです。
だから仕事だからといってイヤなことばかりガマンしてやることは効率の点からも全体の利益という点からもマイナスであり、むしろそのエネルギーを得意な領域に振り分けたほうが本人の幸せとなります。
「イヤなこととはするな」は私の信条でもありますが、多くの成功者(と言われる人たち)も同じ手法であることを知って欲しいと思います。
最後に「人生は自分が創造しているという自覚をもつ」こと。
これは誰でもがそうなのです。たとえば人生がうまくいかないと思っている人は「うまくいかない人生」を創造しているのです。
先の「他者の目を意識して本音を隠す人」は他者を怖れているわけですが、その通り他者は怖いという現実を次々と創造しているわけです。
自分らしくあることが幸せであることに気づけば、その通りの人生が展開します。
そんなことは信じられないというのであればあなたの人生はその「信じられない信念」に従って展開するでしょう。
同じ生きるのであれば「他人の人生」ではなく「自分の人生」を送るほうがよいのではないでしょうか。
自分らしくある。自分らしく生きるというのは決してワガママに生きろということではありません。
逆に自分の特性を活かし才能を発揮し自分を輝かせることで結果として世のため人のために生きるということになるからです。
もしあなたが人の親なら、後に続くお子さんのためにも今からでも「自分らしく生きる」あり方に変えてみてはどうでしょうか。
その勇気のある転換はお子さまだけでなく多くの人たちの模範となるでしょう。
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