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ダーガーに学ぶ人生の充実

教育・子育て

ダーガーに学ぶ人生の充実

充実した人生を送りたいか。それとも空虚で不満だらけの人生を送りたいか。

そう問われれば誰でも「充実した人生」を選びたいと答えるでしょう。
そして充実した人生とは他人からどう見られようが自分が内的に「充実感」を感じていればそれで良いということに異論はないでしょう。

なぜこの問いが急に浮かんだかというと、つい先日新聞の人生相談を読んだのがきっかけです(毎日新聞1月16日付 23面)。

そこでは61歳の男性相談者が、人生の苦境を訴えていました。リストラされたこと、病を抱えていること、振り返れば父の影響で気のすすまない大学(学科)に行き、気のすすまない仕事に就き、結婚もできないまま今は貧しく孤立無援で生きる気力もない……と。

それに対して小説家である回答者が、生前報われることのなかったヘンリー・ダーガーというアメリカの芸術家の生涯を引き合いに答えていました。

ダーガーについては後で述べるとして、まずこの相談者の人生がなぜこのような苦境にあるのか私なりに思ったことがあります。それは恐らく世間の価値観に沿った生き方を選んできた(選ばされてきた)からではないかということ。
より正確に言うなら、社会的に有利か不利かを規準に選択を繰り返した結果ではないかということです。

「嫌いな学科に行き嫌いな業界に入った」という言葉が示す通り、それらの道に進むことが社会的に有利だ(と思われた)からこそ、意志に反してでも選んだのでしょう。
自分の内面と向き合い、自分が本当に望むものを見い出すかわりに外側の規準に従うことを選んだ。

つまり世間や他者が示す「幸せ」を無批判に受け入れ、自分が真にやりたいことを追究しなかった結果として不幸な人生を歩んでしまったと感じるのです。

ここに私は多くの人が陥っている根深い問題があると思ったわけです。

ヘンリー・ダーガーの孤独な人生

ところで回答者が引き合いに出したヘンリー・ダーガーとはどんな人物か。実は私もこの人物のことは全く知らなかったので調べてみると、以下のことが分かりました。

ヘンリー・ダーガー(Henry Joseph Darger)

1892年イリノイ州生まれ。幼いころ母と死別し妹は里子に出され、足の不自由な父に育てられるが8歳で救貧院に入りカトリックの少年施設で過ごす。16歳で施設を脱走。以後シカゴの病院で掃除人として73歳まで働く。1973年救貧院で死去。

ダーガーは天涯孤独を絵に描いたような人物で、友人も家族もなく職場とアパートを行き来するだけの極貧の生涯を送りました。
ところが1972年彼が病気で入院したとき、部屋を片付けようとした大家は大変なものを発見します。

そこには1万5千ページに及ぶ未完の小説(原稿)と、挿絵として描いた3mもの巨大な極彩色イラスト3百点が見つかったのです。
発見された小説はあまりに膨大な世界観のため完全出版されたことがなく、最後まで読み通した者はいないという世界最長の物語で、イラストにいたっては20世紀最大の美術作品の一つとさえ言われているそうです。
日本でも近年「ヘンリー・ダーガー展」が開催されているのでご存じの方もいるかもしれません。

ところで私が胸打たれたのは、ダーガーが19歳のときから死の半年前まで来る日も来る日も、孤独の中で自分だけの物語を創作し続けたその飽くなき情熱です。
極貧のため着る物もツギハギだらけ、画材を買う金もないためゴミ箱をあさり、誰かに認めてもらうためでもなく自分のためだけに、つまり純粋に自己の内的欲求に忠実に従い創作し続けたその姿勢、その在り方に心打たれるのです。

外側から見れば彼の人生は惨めです。生い立ち、貧困、孤独、病、どこをとっても恵まれない環境。不幸そのものに見えるでしょう。

しかし「ダーガーは果たして幸福だったのか? それとも不幸だったのか?」と問われれば、私は幸福だったと思います。

彼は外側に何も求めず、心の中、内部に規準を作りオリジナルな人生を生き切ったからです。彼は創作という内的世界を追求することによって自分の人生を創造したといえます。

オリジナルな生き方が充実をもたらす

さて、ここで話を戻すとダーガーと冒頭で触れた人生相談者の対比が鮮やかに浮かび上がります。

相談者は「結婚もできず、お金もなく孤立無援で」したがって「生きる気力もない」と言っています。
すなわち結婚すること、お金があること、孤独じゃないことが幸福の条件だと言っているわけです。

同じように「結婚もお金も友人もいなかった」ダーガーは幸せだった(と推測されます)。

ダーガーは芸術家だったから貧乏でも幸せだったのではなく、外側の条件に左右されない自分の世界を持っていたから幸せだったのです。
だから私はこの話を「お金があるから幸せだとは限らない」とか「清貧であるべきだ」などとつまらない教訓を引き出すために持ち出したわけではありません。

また、いくら外側の条件に左右されないといっても「仕事や家庭に恵まれた生活をしたい」とは誰しも思うことであり、私だって極貧よりはソコソコ豊かな暮らしを望みます。
もしダーガーのような生活を送れと言われたら、辞退申し上げるというのが本音です。

それは自分の環境を快適にしたいからです。それ自体悪いことではないと思います。

ただ、世間(社会)が押し付ける「これこそ幸せに必要だ」という価値基準に依存する生き方は、それらがなければ不幸だということになり、得たとしても失う恐怖や不安につきまとわれる人生になるという意味でリスキーだと言いたいのです。

これについて思い出すのは、アメリカの社会分析家E.フロムの『生きるということ』(原題:To Have Or To Be?)という本です。

この中でフロムは、人間を「所有」指向と「存在」指向に分け現代の社会が人を「所有」指向へと追い立てていることを指摘しています。

確かに私たちは、どれだけモノを所有しているかによって人生の幸不幸を判別していることに気づかされます。お金、車、家、株、それらの物質的な豊かさだけでなく、他者からの評価や仕事の成功なども「所有」の欲望の対象なのです。
つまりフロムに言わせれば、自らの生き方を「所有」へと方向づけるとき、ほとんどあらゆるものが所有可能となるわけです。

現代では、ほぼ全ての人が産業文化の構造的仕組みによって「所有」指向の価値観を絶対的なものと信じているといえるでしょう。

しかし、この生き方でいく限り「得ては失われる恐怖」はつきまとい、終わりのないラットレースに巻き込まれるでしょう。
そしてそれら外的条件が手に入らないとたちまち「不幸」に転落するでしょう。
それはちょうど先の相談者が陥っている状態です。

これに対しフロムは、在り方(to be)こそが真に問われるべき生き方であると言います。つまり、いかに在るべきか、その心の充実こそがまず先にあるべきだという考え方です。それはダーガーの生き方に通じるものです。

私たちは外側に何かを探し求める限り、心の充実は得られないことを深く考えるときに来ているのではないでしょうか。

外側に目を向けている限り、私たちは今の幸せを取り逃がし続けるからです。
遠い未来に幸せを投影することで「今の充実」を味わうことを常に保留し続けることになるからです。

ダーガーの人生から学ぶことがあるとするなら、それは毎日(今この瞬間)を充実させ、その充実の積み重ねが人生全体に及ぶ生き方を生涯貫き通したことにあると思います。

画一的な幸せを求める人生から、自分だけのオリジナルな人生を送ることの大切さを改めて感じた次第です。

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