教育研究所ARCS

「努力」は辛くて苦しいものなのか

教育・子育て

辛くて苦しいものなのか

私が子どもの頃、親や先生からよく言われた言葉として「努力すれば必ず報われる」がありました。

「一生懸命やれば絶対できる。できないのは努力が足りないからだ。」

小学生から大人にかけて私は散々この「努力の大切さ」を聞かされてきたものです。
算数が苦手だった私は「やればできる!」と先生に叱咤され、その結果「やってもできない私」は劣等感を抱くしかありませんでした。

ちょうど世の中は戦後の混乱も収まり、高度成長に突入する頃で、巷には明るい未来へ向けて「昨日より今日の、今日より明日の」豊かさを目指して国民一丸という雰囲気が漂っていました。

この時代努力、ヤル気、根性というスローガン(?)が飛びかっていた気がします。

「努力すれば夢は叶う」と当時の人々は思っていた。というかそう思いたかったのかも知れませんね。実際人々の所得は毎年10%近く上がり続け物質的な豊かさは次々と実現していったわけですから。
夢は叶ったのです。

しかし努力ギライの私にとって、この「努力絶対主義」の風潮はいささか居心地が悪かったのは事実です。

さて時代は変わり、今はこの「努力」「根性」は流行らなくなったようです。代わって登場したのがスポーツなどの場合で好んで使われる「楽しんで行う」という流儀。

皆が一律にガムシャラに努力するのではなく、個性や才能に応じていわば効率的に楽しみながら練習なり勉強なりに励むのが良いとする考え方です。

これは、努力絶対主義のような暗いイメージはなく一見スマートな方法に聞こえますが果たして一気に「楽しむ」という境地にたどりつけるものかどうか疑問も残ります。

何かを成し遂げるには「努力」なのか「楽しむ」なのか。どちらが大切なのか。それともどちらも大切なのでしょうか。

努力がポーズになっている

先ほど努力至上主義は流行っていないと言いましたが、それでもまだまだ「努力が大切」と思う人は多いし実際何かを達成する、あるいは一定のレベルまで力量を上げるためには意識的な努力は必要です。

ただ「努力すれば必ず報われる」式の努力至上主義にはやはり弊害があると言わざるを得ません。

その弊害とは、世の中には「努力」と「根性」だけではどうにもならないことがあるのに、思わしくない結果が出ると「自分の努力が足りないからだ」「自分はまだまだダメだ」とつい自分を責めてしまうことになりかねない点です。

真面目な人ほどそうやって自分の「努力不足」を責め、ますます奮闘努力するというループにはまってしまうのです。

そのうち努力をしても努力をしても結果が出ないことに落ち込みすっかり無気力になってしまうか、もはや結果のためでない「形だけの努力」つまりポーズとしての努力にしがみつくことになります。

この「ポーズ」としての努力は聞き慣れない言葉ですが、多くの人が無意識に染まっている姿勢ではないでしょうか。

仕事などでもちょっとした工夫や理解、少し注意すれば済むことでも延々と時間をかけて見せかけ上の大仰(おおぎょう)な書類を作ったりする。大きな会社や役所などの事務職だけでなく、どんな分野でもこのような人はいます。
本人は一生懸命かもしれませんが、全体として見ると膨大な時間とコストの無駄遣いとなっている。このような例は多いのです。

「努力が無駄を生んでいる」

本人は一生懸命努力しているつもりでも、このような姿勢は多くの人に迷惑をかけていることもあるのです。「一生懸命努力しているのに何が悪い!?」

全体を省みず「努力している自分」というカラの中に閉じこもっている、その視野の狭さが悪いのです。努力がポーズとなりアリバイとしての「努力する私」がアイデンティティになっていることが好ましくないのです。

さらに努力主義の弊害として「こんなに頑張っている私を皆分かってくれない」という自己憐憫の思いに陥りやすいことを指摘したい。これは親に厳しく育てられたり、努力が大事と言われ続けた人にありがちな心的態度で有害なものです。

なぜなら「自分は認めてもらっていない」という思いが他者や状況への恨み、反感に転化しやすいからです。

努力は苦しむことなのか

このように行き過ぎた「努力主義」は社会への反感と自己評価の低下につながることがあります。

さらに努力という行為を苦しむことと捉えてしまう人が以外に多い。一部のスポーツや芸能の世界でも「厳しいトレーニング」を売りにしているところがあります。そういう世界では厳しさに耐えてやっと「舞台」に上がれるという神話のもと、まるで苦しむことを競い合うかのような光景が展開されます。
泣きながらレッスンを受けるのが普通みたいな(笑)。

そういう経験は確かに人間を鍛えてくれるでしょう。ちょっとやそっとの挫折ではヘコたれない根性も身につくでしょう。
それは逆境に強い人間をつくる半面、頑固で融通性のきかない人間をつくり上げてしまう危険性もあります。

こういう人は「苦しまないと認めてもらえない」という思い込みにとらわれがちで、普通にやればよいことでさえも必要以上に力を入れて苦しみながらやろうとする。物事を変に複雑にし、もっと楽な方法をアドバイスしても耳を貸さず自分の「方法」に固執し「努力」で強引に乗り切ろうと頑張り続けるのです。

もちろんそのガンバリが良い結果を生むこともあります。その時の達成感は本人にとっては何ものにも代えがたい至福の瞬間かもしれません。でもハタから見てけっこう迷惑だったりします。もっと楽な道があるにもかかわらず、努力する自分をアピールしてくるからです。

しかし努力イコール苦闘するもの、ガンバって勝ち取ろうとする人にとっては苦しんでやることで認められたいのでしょう。

思い当たる方はもっと肩の力を抜き、心をオープンにして他者と協力し合うことの素晴らしさに目を向けて欲しいと思います。

努力至上主義の弊害から抜け出すためには、物事は一人でガンバるより他者と協力し各々が互いの得意分野で全体に貢献するという互恵の精神を学ぶことが大切と考えます。
その方が結局皆の利益につながるからです。

このように考えてくると「正しい努力」というものが見えてきます。

一人で背負い込んで苦しみながら他人に認められようとガンバることが尊い努力なのではありません。それは承認欲求に基づく幼稚なエゴイズムの変形でしかないのです。

努力それ自体を楽しめ

では、どんな「努力」なら良いのでしょうか。

それは承認欲求やポーズではない、他人の目を意識しない形の努力と言えるでしょう。

自分が今よりも成長したいという純粋な欲求の現れとしての努力です。

自分の得意なもの、好きなもの、人から感心されるような才能や資質に気づいてその部分を極限まで追求してみたい。究めたいという欲求です。
自分の才能を伸ばすことはエゴではありません。誰でもその人なりの特性や強みがあります。それを伸ばすことは必ず人の役に立つからです。社会貢献につながるからです。

自分の好きなことを追究することは、たとえ一見辛く厳しいことであっても本人はそう思わないでしょう。それは仕事であっても勉強であっても同じです。
イチローは人から見たら求道者のように厳しく辛い練習をしているようですが、本人は意外と楽しんでやっているのではないでしょうか。

私も塾を始めた頃、授業法の研究やテキスト作成を毎日深夜までかかってやっていました。時には帰宅が早朝になることもありました。「先生はよく働きますね。大変ですね。」と人から言われましたが私はいつも驚いたものです。「だって楽しいんだもの」というのが私の答えだったからです。
どうやったら生徒が喜んで授業を受けてくれるか、どんなテキストを使ったら分かりやすいか、私は自由に考えられる立場にいたせいもあり、毎日それらを追究することが楽しくて仕方なかったのです。
すぐに生徒の反応も返ってきますし。

自分の好きなことで懸命に努力することは、苦しいことではなく楽しいことです。

私たちは子どもの頃「国語はいいけど算数は出来ないじゃないか。もっと努力しろ!」などと言われ、努力することは苦しいことだとプログラムされてきたのです。
努力主義にまつわる暗い陰はこのような原体験から来るものかもしれません。

これからの時代は、努力すること時代が楽しみであるという概念(コンセプト)変更が迫られています。これはある意味パラダイムシフトです。
「努力が大事か楽しむことが大事か」という二分法的発想自体、努力は楽しむことの反対─苦しみ─であるという前提から出たものです。

だからその前提を外しましょう。

努力それ自体を楽しむ。努力できるものがあることが幸せである。

この新しい見方に立てば努力は自ずと自分の可能性を広げ、成長を促しひいては社会貢献につながる道を開くでしょう。

画像提供元Freepik

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