塾講師の楽しさは”受験指導”にある
30年塾の講師をやって来て一番楽しかったことは何か。近頃そんなことを考えています。
思い出はたくさんありますが私にとっては受験指導、とりわけ高校受験を迎える中3生への指導でした。
中学受験指導もやりましたが、以前も書いたように(⇒私立中受験はするな!)小学生に受験勉強を強いることは私にとっては苦痛でした。
しかし中3生の受験指導はやりがいと充実そして何よりも楽しさがあったのです。
それはどんな楽しさでしょうか。
一口に言ってドラマがあるということでしょうか。
15歳の中学生と言う時期は悩み多き季節です。小学生と違い、部活や交友関係も忙しく思春期特有の人間関係の複雑さも大人並みです。
その上高校受験という一大イベントも控えています。
それだけ果たすべき課題も多いということになります。
どれも彼らにとっては困難な課題ですが、その課題をクリアしたときに人間としてのステージが一段上がる。
その成長する段階を共に歩みクリアする瞬間を目のあたりにする喜びは何者にも代えがたい。
そのクリアする過程は各人各様、それぞれ違っていますが必ずそこにはドラマがあり感動があるのです。
単に受験指導していて生徒が受かったから嬉しいとかそんな単純なものじゃなく、人の人生の重大な局面に立ち会えた喜びに近いと思います。
むろん塾講師として指導する生徒を絶対合格させねばという思いは強く、合格する生徒が多いかどうかは進学塾としての評価に直結するのも事実です。
また教えている生徒を合格させることは講師としてプライドをかけた戦いでもあります。
まして私は千人近い生徒をかかえた進学塾の経営者でもあったわけで、他のどこよりも「合格する塾」にこだわって来ました。
でもこれら職務としての熱意をいったん度外視しても、中3生の受験にかかわることは1人の人間としてとてもエキサイティングな経験であることは間違いないのです。
展開されるドラマ、そのシナリオ
さて、中3生の受験へ向けてのプロセスはドラマだと言いました。
一体どんなドラマが展開されるのか。
図で書くと次のようになります。
となります。
1.「課題の呈示」から「逃避」
「課題の呈示」とは、部活も終了した2学期ころ受験生たちはここで初めて「入試」という現実、すなわち受験生として勉強しなければならないという自分の「課題」を突き付けられます。
ここでやっと「受験生としての自分のやるべきこと」と向き合うわけです。
しかし頭では「勉強しなければ」と思いつつもなかなか身体が動かない。ヤル気が出ない。受験生である自分に実感がわかない。認めたくない。つまり抵抗が生じます。
ここからは人によって違いますが、形だけ勉強しているフリをしたり、友人との遊びなどに逃げたり、その子の性格や状況によって様々な逃避行動が起こります。
「毎日学校帰りに塾に寄って自習する」という形の逃避さえあります。
これなど親も安心し我々もダマされることがありますが、よく注意して観察するとダラダラ机の前にいるだけで心は上の空、仲間とおしゃべりしていたり、ひんぱんにコンビニ出たり入ったりと全く集中していません。
こういう時我々はあえて「塾への出入りを禁止」することもあります。
また塾帰りに家に帰らず寄り道していて、心配した親の連絡で我々が居場所探しに走り回ることもあります。
そんな生徒の捜索(?)のために繁華街を何度さ迷ったことか……。
こうした「逃避」は多かれ少なかれどの生徒にも表れます。
この時期が我々にとっても彼ら生徒にとっても一番つらい時期だと言えます。
2.「気づき」そして「受容」へ
しかしこのハードルを越えると彼らにも様々な「気づき」が訪れます。
なかなか成績が上がらない。もし落ちたらどうしよう。そういう恐怖やイラだちが逃避の背景にあるわけですが、時には厳しく叱り時には優しくさとし、またある時は深夜まで必死に説得する過程を経て、彼らもやがて「気づき」を得るのです。
どんな気づきか。
それは「自分は今まで困難から逃げていた。」「自分は色々な意味で甘かった」という気づきであり、その気づきが起こると直ちに次の段階「受容」に移ります。
何を受容するのか。
自分は受験生である。その立場を受け入れてその結果も自分で引き受けるしかない!
そう。まさしく自分の克服すべき「課題」を受け入れるという覚悟です。
頭で理解するのではなく、心の底から腑に落ちた瞬間がすなわちスイッチオンの状態、受容した瞬間なのです。(⇒親の心配 子どもの迷惑 受験は自立のチャンス!)
ここからが本当に集中した状態。一心不乱に勉強する時間となります。
恐らくこの時彼らの頭の中には余計な思考はない。雑念もなく澄み切った平穏な心があるだけだと想像されます。
何をすべきかが分かり、ただやるべきことを正確にやっている。そこには独特の「静かな緊張感」とでも言うしかない時間が流れている。
信じられないかもしれませんが、入試直前のこの「静かな時間」は幸せさえ感じられ生徒たちも満ち足りた表情をしているのです。
3.課題を克服した後に残っているもの
この時点で「課題」は克服されたといえるでしょう。
誤解を恐れずにいえば合否も関係ありません。
なぜなら課題が克服された後には「成長」しかないからです。
前回(⇒15歳のイニシエーション②~トラウマからの脱出~)も話した通り、成長の儀式(イニシエーション)は一定の負荷(困難な課題)⇒克服というプロセスを経て「自立」を促すものでした。
そしてそれは15歳という思春期こそ必要なものでした。
まさに現代の「15歳のイニシエーション」は高校入試に姿を変え、それに立ち向かう生徒たちのドラマチックな人生模様の中に凝縮されていたのです。
私が長きに渡って塾講師を続けてきたのも、中3受験生が最後に見せる神々しさに打たれたからかも知れません。
私だけではありません。
他の講師たちも、いや中3受験指導に何らかの形で関わった人なら誰でも、彼らの驚くべき成長の瞬間を目にした経験があるはずです。
それはやや大げさに言えば奇跡を目のあたりにした感動と呼ぶにふさわしいものだと思います。
人生ドラマの瞬間に立ち会ったという感動です。
[…] 以前もブログで書いていますが(⇒子どもの迷惑 受験は自立のチャンス!)(⇒15歳のイニシエーション①)(⇒15歳のイニシエーション②)(⇒15歳のイニシエーション③) 受験、とりわけ高校受験は子どもの成長という点で一つのチャンスだということです。 […]