日々痛感することだが、他人の欠点や弱点、至らないところは容易に気づくが長所や評価すべきところ、ほめるべき点などは見逃しやすい。
特に人の隠れた才能を見い出すことなど至難のワザだといえよう。
だから他人の弱点や困った部分をことさら批判するより、なるべく長所を認め美点を見い出すよう努めることが大切になってくる。そのほうが人間関係も良くなるし他者を伸ばすことにもつながる。
批判より肯定であり受容である。
こんなことは誰でも知っているし、実際に実行している人もいる。人から好かれ人間関係が良好な人は大抵そうだ。
良識ある人間ならむやみに他人の批判や欠点の指摘などしないのではないか。
ところがそんな人もこと我が子が相手だと途端に欠点ばかり見て口やかましくなる場合が多い。
何を隠そう(隠しているわけではないが)私もそうだ。
「部屋がいつも汚い」「スマホばかりいじって勉強しない」「計画的に行動しない」「学校から帰るとダラダラ寝ている」「テスト前にあわてて勉強する」「何をやっても長続きしない」「集中力がない」「注意するとフテくされる」などなど…。キリがない。大抵の親も同じではないかと思う。
子どもをほめるより叱ったり注意したりばかり。あげく親のほうが「叱ってばかりいる自分」に自己嫌悪を感じたりもする。
母親の中には、夜子どもの寝顔を見ながら一人密かに反省し子どもが可哀想に感じたりする人もいるだろう。
しかし翌日になるとやはり「鬼母」復活となる。
さてどうすれば良いのか。
親の中には「なるべく注意しないようにしていますが、言わないとドンドンひどくなるので…」と自分に言い聞かせるように語る人もいるが恐らく「注意」が止まることはないだろう。
「子どもはホメて伸ばせ」とか「長所を認めてあげよう」というのは子育ての専門家が言いそうな文言だが現実的ではない。
なぜならそんなことは多くの親も分かっているからだ。分かっていてもつい欠点ばかりに目が行ってしまうのが親というものである。
ならばこのループから抜け出るにはどうするか。
自分を受け入れるのが先
まず次の原則を理解したい。
親が自分の中に「受け入れられない部分」があるとき子どもを受け入れることはできない。
この原則はさらに大きな原則に含まれる。すなわち自分を認められない人は他人を認めることはできないという原則だ。
逆に言えば自分を認めている人は他人のことも認めることもできるということになる。
だから親はまず、子どもを認めようと努力するより自分を認めるのが先ということだ。自分の中の「受け入れ難い部分」を何とか受け入れるようにすることが子どもに対する肯定感につながる。
たとえば子どもの動作が遅いと「早くしなさい」と急き立てる親がいるが、そういう人は自分も子どものころ親から「グズ」と急き立てられた経験があるのかも知れない。何でもテキパキとやらなければダメだと思い込まされた可能性が高いのだ。
「勉強は計画的に」と子どもに言う親も同様。自分も親から「計画的に」と言われたにもかかわらずそれができずに「失敗した」と感じ、子どもに同じ思いをさせたくない一心でそう言っているのかも知れない。
このようにストレートに結びつかないまでも自分が昔親や先生から注意されたにもかかわらず、ちゃんとできなかったと心の底で悔やんでいることがないか思い出してみて欲しい。
悔やんでいるかどうかより、私たちは皆子どものころ親や先生、世間の人から散々「もっと○○しなさい」「そんなことじゃダメだ」「○○すべき」と言われ続けた結果、自分を完全に認められない体験をもっている。まずこの「事実」を認めよう。
つまり「ありのままの自分ではダメ」「自分には欠けたところがある」という欠落感が、自分を認められない思いにつながっているわけだ。そしてその不安が子どもの「欠けている部分」に必要以上にフォーカスさせる原因となっていることに気づいて欲しい。
親は「子どもが心配だから」と言うがそれは表面的な理由で、親が自分を完全に受け入れていないから子どもの全てを受け入れられないというのが真相である。
だから簡単に言えば親が自分を受け入れること(自己受容)。そうすれば、子どもの欠点は気にならなくなり良い部分にフォーカスできるということだ。
そうでない限りいくら口先で「子どもを認めている」「長所を伸ばそうとしている」と言っても効果はない。
他者承認より自己承認
最初に言ったように自分自身さえ認めていない者が他者を認め、伸ばすことなどできないということ。従って自己受容できない親は真の意味で子どもを伸ばすことはできないということになる。
それでもなかなか自己受容できず子どもを認められないと感じる人も多い。そういう人には次の文を読んで欲しい。これは以前親対象の「子育てセミナー」用に私がつくった原稿の一部で長いが引用したい。
『自分の良さを認められず注意されてばかりで育った子どもはどうなるだろう。
恐らく「ありのまま」の自分は愛されない存在だと思うだろう。子どもにとって親、特に母親の存在は絶対である。母親のそばにいて母親に愛されることが自分にとって生存をかけた欲求とさえ言えるのだ。
従って母親にダメ出しを続けられた記憶は「自分は母親に愛されていない」「自分には欠けたところがある」という欠落感情を持ち続けるだろう。
「愛されたい」「認められたい」という思いは誰でもがもつ根源的な欲求だから、母親によって満たされなければ大人になっても他者からの「承認欲求」をいつも求め続ける人になってしまうだろう。
この「自分を認めてほしい」という欲求は完全に満たされることはない。
なぜなら根底に「ありのままの自分はダメだ」「自分には欠けているものがある」という欠落感があるからだ。
だから恋人同士や夫婦の間、友人間など「相手から認められることばかり要求」してもそれは満たされず、人の顔色をうかがうばかりの人間になったり「自分を分かってもらえない」と他人のせいにしたりする。
こうして他者からの承認欲求が満たされないと、今度は「我が子を完璧にする」ことで間接的に自らの承認欲求を満たそうとする。実はそういう親は多い。
我が子を他人(社会)の眼から見て「良い子」にすることで満たされない欠落感を埋めようとするのだ。
しかし子どもは思うようにいかない。すると「子どもが言うことを聞かない」「計画的に勉強しない」といつもイライラすることで、子どもは親から愛されていない、認められていないという欠落感を抱いてしまう。
こうして欠落感と承認欲求の負の連鎖(ループ)が続いていく…』
この連鎖を止める方法はただ一つ。親がまずこの「事実」に気づいて自ら止めようと決意すること。その上で子どもの方ばかり見るのではなく自分自身を認め自己受容すること。そうすれば子どもの欠点ばかり責めたりせず子どもの「ありのまま」を受容でき、結果として子どもはノビノビ育つということです。
そしてもう一つ。承認は他者から与えられるものではなく、自ら与えるものだということ。このことを自覚したい。親の内なる自己受容こそ変容の鍵だということです。
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