以前の記事(=ココ)でも触れましたが、21世紀学力つまり新しい時代の学力とはどういうものかといえば、もっとも重要な特徴は「答えのない問いに答える」ことではないでしょうか。
私たちはこれまで問いには答えがあるという前提でものごとに対処してきました。
特に学校教育を通じて「問題には必ず正解がある」ことを、私たちは何の疑問もなくごく当り前の常識として受け入れてきました。
「答えがあるって当り前じゃないの!?」
「正解のない問題なんてどうやって解くの?」
「答えがあるから問題なのでは!?」
「そもそもどうやってテストするの!?」
「そんな問題に答えるために何を覚えればいいの?」
「どういう勉強すればいいんだよ!!」
これらのブーイング、疑問の声は当然でしょう。
それくらい私たちは「問い」と「答え」はセットであり、一連のものだと信じているわけで「正解なき問い」など発想の浮かぶ余地さえないのです。
しかし、ここは冷静に考えてみましょう。
学校の勉強、テスト、入試といったものから少し離れてみて下さい。
頭の中の「凝り固まった常識」「概念」といったものから距離を置き、できるだけ白紙の状態でいて下さい。
そして人生全体をボンヤリと視野に浮かべてみましょう。
よろしいでしょうか?
さて、その上であなたの人生経験や社会で起こっている様々な問題などを思い浮かべて下さい。
その中で、正解が直ちに浮かび上がる問題はどのくらいありますか?
小は日常のささいな問題から、大は社会情勢や国際問題に至るまで「正解」がすぐに浮かぶ問題というものはあるのかどうか聞いています。
どうでしょう?
ありますか?
ちゃんと考えて下さいね(笑)。
問いと答えがコインの裏表のように、問いを発すれば直ちにピッタリとした正解が得られるという場合はどれくらいあるでしょう。
では角度を変えて質問しますが、問いには必ず正解があるという考え方のもとにその「正解」はすぐに実行可能でしょうか。
あるいは、あなたはその正解を思いついたとしてそれを実行した結果うまく問題は解決したでしょうか。自分の経験をふり返って考えてみて下さい。
質問ぜめで申し訳ありませんが、まさにいま私が発している「問い」に答えようとする作業こそが今回のテーマとなります。
つまりよく考えてみれば世の中には、正解の出せる問題よりは簡単に正解など出せないことのほうが多い。そして永遠に正解などわからない。あるいは多くの正解があり得る問いも多い。そしてそれらの答えは相互に矛盾している場合もあるということです。
少し人生を永く生きていれば当たり前の話ですね。
世界のグローバル化が背景にある
要するに世の中には正解のない―正解がわからない―問題が多い。
個人の生活でもそうだし、社会問題もそうです。
そのときは正しいと思った決断や行動も、後からふり返ったら「違っていた」とか「もう少しああしておけば」ということも多いはずです。
仮に答えらしきものが見つかっても、それが本当に正しかったか何十年も立たないと分からないことも珍しくありません。
特にこれからの時代―いやもうすでに―社会は十分に複雑化し誰の目にも「簡単に答えがわかる」ものなど見つけられないのが普通です。
政治、経済、環境問題に雇用や福祉、教育や人間のモラルから価値観に至るまで伝統的なやり方や考え方が急速に通用しなくなっています。
背景に、国境がボーダレス化し人やモノ、情報が自由に行き来することによってビジネスのやり方や政治的影響だけでなく、文化や芸術面でも互いの交流、影響関係が拡大していることがあります。
いわゆるグローバルな世界の到来です。
グローバルといえば、日本人は何となく「世界が広がる」「世界が一体化する」というロマンチックなイメージを持ちがちですが、金融不安や感染症、宗教的あつれきやテロリズムなど「負の拡散」も大きいのです。
またグローバルというのは「世界中を相手に競い合う」ことも意味する半面、優秀な人間同士がビジネスパートナーとして国境を越えて連携し合う世界でもあり、その結果として富のあり方も変わります。
今までのように富裕な国と貧困な国があるというより、一つの国に富裕層と貧困層が存在し、その差はますます拡大するという形での二極化が問題となるでしょう。
南北問題の消滅ですね。
すでにアメリカなどは、中間層(ミドル)が空洞化し一部の富裕層と貧困層に分離しその勢いはとどまることを知らないのが現状です。
日本にも近い将来その「波」が押し寄せてくるというのが大方の見方です。
チャレンジ精神と冒険心が必要
さて話を戻しましょう。
21世紀学力とは「正解のない問い答える力」ということですが、なぜそのような力が必要なのかは、ここまでの話で大体察しがつくと思います。
かつて例を見ないほどの巨大な「世界のグローバル化」を目前にひかえ、今までのように国内でしか通用しない考え方や、慣習的手法をいったんリセットし新しい見方、考え方を提唱し実行する人間が必要なのです。
グローバルな国際社会で活躍できる人材を教育の現場で育てることが、まさに21世紀中盤以降の「生き残り」をかけた最重要課題になっているのです。
「皆がそうだと言うからそうなのだ」
「これまでもこうやってきたから間違いない」
こういう事なかれ主義や保身ばかりの人間ではなく、常識を疑い、ピンチの中にもチャンスをうかがい、理想を求めて様々な選択肢と解決法を考え得る人間こそを育てなければならない。
「正解のない問い」にこそ果敢に挑むチャレンジ精神と冒険心を持つ人が必要になったということです。
2020年から大学入試問題の大幅改革が行われます。
そのもっとも大きな柱に「1点刻みの得点を争う入試」から「正解のない問題や正解が1つとは限らない問題に対する、論証能力を見る」ことがあげられています。
採点の技術的困難さや公平性の観点から、この新改革の実現性を疑問視する大学や教育関係者もいますが、私はいま述べた状況から紆余曲折はあってもこの方向性は変わらないと思います。
そうでなくては全てが立ち行かないからです。
これは「入試」をどう乗り切るかという小手先の問題にしてはいけないのです。
特に子をもつ親にとっては「どうやって子どもに新しい学力をつけるか」という発想ではなく、どういう人間であるべきかという「あり方」をこそまず問うべきなのです。
今日の話を参考に考えていただけたらと思います。
その上で次回、親は何に気をつけて子どもと接したらよいのか少し具体的にお話したいと思っています。
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