私たちは誰でも「望みの現実」を手に入れたいと望んでいる。
「周囲の人たちともっとうまくやって行きたい」
「会社で実績を上げてそれなりに評価されたい」
「もう少し経済的に余裕のある生活を送りたい」
「子どもがいちいち言わなくても意欲的に勉強して欲しい」
ささやかな希望から大胆な願望に至るまで様々な「望み」を私たちは抱えている。しかし、それらの望みはなかなか叶わない。なぜだろう。
冗談のように聞こえるかも知れないが、望みがなかなか叶わない原因は望みを叶えたいと本心から思っていないからだ。
「そんなことはない。こんな苦しい現実から早く脱け出して望みを叶えたいと思っている」
そう言うかも知れないが、それは頭でそう考えているだけで無意識層では逆のことを考えているのだと思う。
誤解して欲しくないが、私は多くの人が本気で願ってないからだとか熱意や努力が足りないからだと言っているのではない。
そうではなく、多くの人は無意識の裡で「望みは簡単に叶ってはいけない」あるいは「簡単に叶うはずがない」と思っているということ。苦労したり努力したりという何らかの対価(代償)を払わなければ望む現実は手に入れられないと考えているということだ。
代償だけではない。自分はそれ(望みの現実)を受け取るに値しないのではないかという自己否定の感情も多くの人がもっている。
心の奥底にあるそれらの諸々の観念や感情が望む現実を遠ざけていると言いたいのだ。
自分の望みが実現しないのは自分が心のどこかで拒絶しているからではないか。
一度真剣に問うて欲しい。
「簡単に叶わない」という思いこみ
私たちは子どもの頃から蓄積してきた記憶―膨大なデータ―をもち、その他社会的常識や他人の思惑、時代の流行の影響を知らずしらずに受けている。それらは集合的無意識(多くの人が信じ込んでいる観念)となって潜在意識に入りこみ私たちの考え方や行動を支配している。
固定観念による支配だ。
それらの固定観念の中には「望みは簡単に叶わない」もあれば「成功するには人一倍の努力が必要だ」「楽して金儲けなどできるわけがない」などもあるだろう。
もし、簡単に望みが叶ったり、大した努力もなく成功したり思わぬ大金が入ったりしたら自分はどう感じるか考えてみれば、自分を制限する固定観念の強さが分かるのではないか。恐らく当惑、不安、居心地の悪さ下手すると罪悪感さえ感じるのではないだろうか。
分かるようにこうした縛りは「簡単に望みを叶えてはいけない」という自己に対する禁止命令にさえなり得る。こうなると当然叶うはずの望みさえ実現できなくなってしまう。
いくら頭では「こうなりたい」と思っても本心(潜在意識)では「叶えてはいけない」と禁止している以上叶うはずはない。
潜在意識で考えていることが実現するというのは心理学的には常識だからだ。
最初に望みがなかなか叶わないのは本心からそう思っていないからだと言ったのは、このように固定観念や常識が障壁となっているからだ。
自己否定が実現を妨げる
では望む現実を手に入れたいなら固定観念を壊せばよいのかと問うなら、当然答えはイエスとなる。
しかしそれは難しい。
私たちは潜在意識に固定観念があるからこそ日常の細々とした問題を自動的(無意識)に処理していけるのである。
「赤信号だから車は止まるはず」「暗がりは危険だから避けよう」など固定観念は私たちを安全へと導く働きもしている。
だから打ち壊すのではなく緩める。自分の中に「望みは簡単に叶わない」という観念があることにまず気づく。気づくだけでも緩む。無意識の想念に意識の光を当てたからだ。
その上で「望みは簡単に叶うこともある」あるいは「叶ってもよい」と少し修正する。少なくとも「叶えてはいけない」などという脅迫的な思いを抱えないことが大切。
そしてもう一つ。「自分は望みのモノを手にするに値しないのではないか」という自己否定を手放すことだ。
「自分は○○に値しない」という思いも多くの人が奥底に抱えている問題で、実はこれが「望みの現実」を遠ざけている直接的な原因となっている。
たとえば普段あまりよい成績ではないのに、色々努力したり先生の励ましなどもあって驚くような良い点を取る生徒がいる。ところが少し立つとまた元の悪い成績に戻ることがある(もちろんそれをきっかけに伸びていく子もいるが)。さらに不良行為などをくり返す子を更生させようと、これまた周囲の人たちやボランティアの人が懸命に励ましたり説得し一時的に立ち直ったかに見えたのに、再び家出したり昔の不良仲間の元に戻っていくこともある。
もっと身近な例でいうなら、仕事などで成果を上げ念願の待遇改善(昇進や給与アップ)を果したのにその後落ち込んだりウツになる人もいる。
私自身の経験でも、働きの良いスタッフを抜てきしたり給与を上げようとすると尻込みする人が多くいた。「私にできるのでしょうか?」と喜ぶより不安がる人のほうが多い印象だった。
もちろん新たな地位につくことで責任が重くなるという不安はあるだろう。
でも合理的に考えれば実力にふさわしい地位についたほうが、今まで以上に力を発揮しやすいし経済的利益の面でも望ましいはずだ。それは彼らも理解している。
それなのに拒わる人が多い(躊躇する人も含めて)のは、どこかで「自分はそれらに値しない」と考えているからなのだ。
先の成績が下がる生徒や不良に舞い戻る少年にも同じ心理が透けて見える。
もしその「自己否定」の思いを手放せば現実は劇的に変わる。
「望み」を自分に許可すること
それなら「自分は○○に値する人間じゃない」という否定的感情を手放すにはどうすれば良いのだろう。
実はこれも先の「望みはなかなか叶わない」という固定観念と同じで、まず自分の中に「自分なんか」という否定感があることに気づくことが第一である。その否定的感情は決して産まれついたときから持っているものではない。
幼いときを思い出してみればいい。
何でも自由にやれて何でも自由に手に入る。世界は可能性に満ちて輝いていた。
けれど大人になるにつれ、失敗の経験や周囲からの圧力、学校教育などにより私たちはいつしか「自分はちっぽけな存在」と思い込まされてきた。「自分は受け取るに値しない」という否定感情もこうして後天的に植えつけられたものである。
後天的に教え込まれたものは自ら気づくことで解除することができる。自己否定感は一種のプログラムだから解除可能なのだ。
何かを手放すにはそれを握っていることに気づかねばならない。こうして気づく度に様々な否定感情を少しずつ手放していくことができる。
その上で次のステップへ進む。
それは自らに「許可」を与えるという作業だ。
「自分はそれを受け取るに値しない」を「受け取って良い」と自分で自分に許可する。
たとえ自己否定感の強くない人であってもこの「許可を与える」という方法をお勧めする。
なぜかというと次のような法則があるからだ。
人が持てるものは自分の許可したものだけ!
逆に言うなら自分の許可した分しか現実化しないということ。
周囲をよく見渡してみて欲しい。自分を取り囲むモノや人間関係、環境や状況に至るまですべては心の奥底で自分が「持って良い」と許可したものではないだろうか。望みの現実が叶わないのも許可していないからだ。
もし許可の範囲を広げることができたら充足はナダレこむだろう。
私たちはもっと自分に優しくして、自分が快適に生きることを許可してもいいのだ。多くの人は自分に厳しすぎるし、何かを実現するにはもっと苦労しなければと思いすぎている。
本当は手を伸ばせばすぐ手が届くところに「実現」があるのに「もう少しガンバらねば」とか「いまの自分はまだまだだ」とわざわざ遠回りをしているように見える。
これは例えて言うなら、家の前にトラック何台分もの「ステキなプレゼント」が到着しているのに、ドアも開けずほんの小さな小窓だけ開けて荷物を取り込もうとしているようなものだ。これでは小窓分の物資しか入ってこない。
自分に許可を出すということは扉を全開にせよということだ。正面のドアも裏口も窓もすべてオープンにする。そうすればプレゼントは余すところなく収納できるだろう。すなわち望む現実が実現する。
苦労しなければ叶わないとか自分はそれに値しないというのはすべて実現に対する抵抗なのだ。
だから望みを妨げていた者は実は自分であったと気づくとき周囲の現実は確実に変わる。そして自分を労り自分を優しく扱うことで現実はさらに望ましいものへと変わっていく。
こうして結論はとてもシンプルなものになる。
望みを叶えたいなら自分を最大限大切にすること。それが自ら閉ざしていた扉を開き「受け取り」を許すことになるからだ。
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