早い時期から「結果」ばかり求めるとその後の人生で伸びなくなることが多い。
そういう意味で私は勉強でもスポーツでも、芸術的才能においても早期教育や英才教育には反対だ。
人はどうしても華々しい成果に眼を奪われる。色々な分野で傑出した才能を示す「天才」が現れ、彼らが小さい頃から英才教育を施されたのを聞いたりすると「やはり早いうちから教育したほうが…」と思うのかも知れない。
だがそれは早計だ。スポーツ選手などに顕著だが中学~高校で既に「完成」させてしまうと後が伸びないことが珍しくない。
これらは目先の「結果」を急ぎすぎて、自然に才能が開花する前に人工的に成熟させてしまうことに原因がある。
勉強などももちろん例外ではない。
最近は幼稚園児に英語を学ばせるなど「勉強面での早期教育」も盛んだが、経験から言うとそれで英語が得意になるわけではない。
私は長い間小学生(低学年も含め)にも英語を教えたが、リードしているのはせいぜい中1の1学期くらいまでで中1の後半には、中学から英語を始めた子たちに簡単に追いつかれるのが普通だった。
今では学校でも小学生に英語を教えているが昔に比べて英語の全体的学力が上がったという話は聞かない。
小学生で英語のできる子は元々英語ができるタイプに過ぎない。そういう子は別に早くから始めなくても「できる子」なのだ。
才能があり(向いている)、そして好きである子に対して早期教育は「目覚めのきっかけ」にはなるだろうが、決して早期教育の「結果」ではない。
しかし多くの親はこう思っているのではないだろうか。
「我が子がどんな分野に向いていて、どんな才能があるか分からない以上色々なこと(習いごとなど)をさせてあげたい」
「子どもの能力を伸ばすきっかけを与えてあげたい。別に天才をつくろうとしているわけではない」
勉強やスポーツ、その他習いごとをさせることそのものが悪いわけではないが、教育者の端くれとして一つ警告したいのは早くから教育することでかえって才能をつぶすことも多いということである。
早期教育は脆弱な子になりやすい
先の英語の例で言うと、幼児や小学生対象の英語教室に通った子の相当数が「英語ギライ」になるという事実を私は経験している。
最初のうちは子どもも楽しんで英語を勉強するだろう。それで親も安心するなら危険だ。英会話と称して「お遊び」で英語をやっているうちは良いが、中学に入って本格的に文法や語法熟語表現など「ややこしい勉強」になると途端に嫌気がさしてしまうからだ。
「あんなに楽しかった英語は何処に…?」という感じ。
この子たちがもし幼児期から中途半端に英語などかじらなければ、新鮮味を失わずもっと興味深く勉強したのに、という思いを私は常にもっていた。
スポーツでも芸術系でも中学受験の勉強にしても、本人が真底から望まないうちに外側から強制―多くの親は強制したつもりはないと判で押したように必ず言うが―されたものは人生のある時期にピタリと興味を失うことが多いと感じている。
人生は長い。むしろ勝負は社会に出た後である。自分の才能や特質を見究めそれを伸ばし役立てるために研鑽を惜しまない。そんな人間こそが社会人として一定の成果を出し続けるだろう。
若いうちだけ光輝いて後は暗闇の人生ではつまらないし本人も周囲も不幸になるだけだ。
人生全般を考えた場合、早熟の天才より遅咲きの大器晩成型のほうが断然よいと思う。
色々失敗や挫折をくり返しながらその分多くを学び、後半にいくにつれ才能が開花していく。そういう人生のほうが圧倒的に幸福ではないだろうか。
どんな分野であれ才能を伸ばすのには一定の熟成期間が必要だ。土から芽を吹き大木となりやがて大輪の花を咲かせるには良い土壌や日光が、時には厳しい風雨が必要なように、人間も時間をかけて困難や失敗の中から学ぶことが大切だと思う。
早期教育や目先の結果ばかり追う姿勢は人工的な促成栽培であり、そこにはどうしても脆弱さがつきまとう。土台(壌)そのものが弱いからだ。
子どもの教育は親がやれ
だから私はこう考えている。
「結果」を出すより子どもが後々まで「学び続ける姿勢」を身につけること。このほうがずっと大切だ。なぜなら社会で成功する人間は例外なく、常に学び続ける姿勢をもっているからだ。
親がやるべきは子どもに早期教育を施して促成栽培することではない。何とか教室に早くから通わせ「学ばされ」てきた子は大学生くらいになると自ら学ぼうとしなくなるのがオチだ。
そんなことより親自らがすべきことがある。
それは子どもに「遊び」の時間を与えること。今の子どもたちは習いごとや部活など忙しすぎる。まるで決められたスケジュールに従わされる労働者のようだ。管理されすぎて自由がなく自ら考え創意工夫する余裕がない。
私がいう「遊び」とは、子どもたち同士がもっと触れ合い一緒に行動することで生まれる切磋琢磨の時空間のことだ。大人は遊びはムダで、勉強やらスポーツ、習いごとなど何か「ちゃんとしたこと」をやらせなくてはと考えるが型にはまりすぎている。
遊びの中から対人スキルは磨かれる。遊ぶべきときに遊ばなかった子は後に対人関係で苦労する。対人スキルは「効率主義」からは生まれない。
もう一つ親がすべきは子どもの「自己肯定感」を高めることだ。
いま日本は悪い意味で「成果主義」が蔓延していて、それが子どもにも及んでいる。勉強、スポーツ何でもそうだが目先の結果を出すことで人間そのものを序列化している。
トップグループに入る。あるいは優勝するのは一部であって残りはすべて敗者として扱われることは問題である。
遅咲きタイプや真の実力者がむしろ早い時期に「失格」のらく印を押されるようなものだからだ。
中高生を始めとする日本の若者が世界でもっとも「自己評価が低く」「幸福感に乏しい」のは各種調査で明らかになっている。
これは由々しき問題であって、若者が幸福を感じず将来への夢が描けないとしたら、国全体から活力は奪われ衰退に向かうことは必至だからだ。
子どもの自己肯定感を高めることができるのは親しかいない。なぜなら自己肯定感は自分の存在そのものを認められることからしか育たないからだ。「成果主義」とは別名条件つきの愛である。しかし親の愛は無償でなければならない。
子どもに早期教育や英才教育を施そうとする行為はある意味で「条件つきの愛」の環境に子どもを置くことになる。
子どもの存在を丸ごと受け入れ、認め肯定することは親にしかできない。
それは子どもをやたらホメろとか何でも好き勝手にさせておけということではない。
子どもを無条件に愛しながらも、むしろ自己責任能力を高め、それがあるからこそ自由な選択の可能性も広がることをきちんと教えたい。
人間にとって本当に大切な学びは学校でも塾でも教えることはできない。今こそ親が身をもって教える時代になっている。
子どもの「学び」を他へ外注するのは実は親の自信のなさの現れである。
子どもに「良い環境を与えたい」と多くの親が言うが、子どもにとってもっとも学びに適した環境は家庭そのものであることを忘れていないだろうか。
親がどういう人間であり、どう社会と関わりどんな問題を抱えて生きていたか。そして自分たち子どもとどう向き合いどう育てようとしていたか。
それこそがもっとも今の自分に影響を与えていた重大な要素ではなかったか。
つまり親のあり方こそが子どもに対する「無言の教育」であるということ。そしてこれが親の心得るべき3つ目の要素になる。
親はもっと自信をもって子どもの教育にあたって欲しい。それこそが子どもの自己評価を上げることにつながると思う。
慌てることはない。子どもはもっとゆっくりじっくり育てよう。将来の開花に向けて今はその土台をしっかり作るべきと考えて子育てを楽しもうではないか。
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