私たちはさまざまなルールの下で生きています。
大は法律や道徳から小は会社や学校、近所づき合いでのルールに至るまで。
そして私たちはそれらの多くを当然のものと見なし従っています。
「これはこういうもの」
「こういうときはこうふるまうべき」
「そういうことはしてはいけない」
このようにルールというものは基本的に人間の行動や考え方を規制する性質があります。ルールの中にどっぷり浸かって生きていると知らず知らずのうちに、自由な発想や行動は抑えられ焦燥感や生きづらさを感じるようになります。
しかも恐ろしいのは自分では自由を満喫しているつもりでも、そのルール内にいる限り制限付きの自由に過ぎないことに気づかないことです。
たとえば野球のゲームで、どんな発想をしようとせいぜいランナーを帰すにはどうすればよいか。バントかヒッティングかエンドランか、それとも球種によってはホームランを狙うかという話でしかない。
野球をやっている限り野球のルール内でしか発想できないのです。
何とか奇策を練っているつもりでも野球を知らない人から見ればこっけいな話でしかないということです。
会社などでもその組織独特のルールやしきたりがあるのが普通で、他社から来た人から見ればその様子は何と不自由なものに縛られているのか不思議にしか思えないことがあります。
だからその呪縛から脱け出るためには、自分がどんなルールに縛られているのかつまりいったんそのルールの外側に出てみることが必要です。そうすればルールを相対化することができます。
しかしこれはそう簡単な話ではありません。
なぜなら私たちは多くの場合生まれた時からルール内にいて、そのルールに縛られているということにさえ気づいていないからです。
会社の就業規則や学校の校則、交通規則などは誰でもわかりやすいルールとして理解しています。しかし「常識」という名の暗黙的なルールには疑うことなく従っているのです。
ルールに支配されると不幸になる
その暗黙のルールというのは世間の人々が「人生とはこういうもの」と思い込んでいる観念と言ってよいでしょう。
たまに朝早く街に出ることがあります。街には出勤するサラリーマンや学生たちが必死に駅に急ぐ姿があります。遅刻しては大変と満員電車に殺到するその姿は皆マジメで深刻そうに見えます。
朝の通勤(学)ラッシュ。当たり前の光景でしょうが私には異様に映ります。皆何かに追われているかのようです。
「そんなこといったって遅刻すると怒られるし」とか「仕事に行かなきゃ生活できないじゃないか」と言われそうです。
つまりそれが彼らにとっての「人生のルール」ということです。
私はここで「ルールに従うな」とか「ルールなんか無視しろ」と言ってるのではありません。
私が言ってるのは「ルールの真実味そのもの」を疑えということです。
たとえばまず生きるために金を稼ぐというルール。
金を得るためにはどこかに就職して給料をもらうというルール。給料をもらうためには毎朝通勤ラッシュをガマンしなければというルール。
さらにこれらのルールには無数のルールがくっついてきます。
会社をクビにならないためにはイヤな上司の言うことも聞かなければならない。良い学校に入るためにはテストをがんばらなければならない。エトセトラ。
このようにルールの中でサバイバルを繰り広げているのです。
しかしこれらのルールは絶対的な真実などではありません。
多くの人が信じる「お金を得るためには給料をもらわねば」さえも真実ではりません。
給与の形じゃなくお金を得ている人もいっぱいいます。週2〜3日しか働かなくても人並み以上の収入を得ている人もけっこういるからです。
お金の話はひとつの例で、他にもたくさんの暗黙のルールに縛られています。
人生そのものがルールと化しているといってよいくらいです。
ルールの中にいる限り、成功も失敗も限られた範囲での一喜一憂に過ぎず不自由のオリの中にいることは変わりません。
何かを選択するにしてもすでに用意された選択肢の中から選ばされていることに気づきません。
結果として何か自分が飼い殺しにされているような空しさにつきまとわれることになるのです。
ルールの外に出ることで人生を自在に生きる
だからいったんルールの外側に立ってみればよいのです。
ルールの外に立って初めて、自分は「野球をしていたのか」とか「サッカーをしていた」と気づくことができます。そのとき自分を縛っていたものはそれらのルールに過ぎなかったと分かります。
つまり呪縛は解けたということです。
こうなるとルールは相対的なもので、それに縛られる必要もなくそれどころか自ら設定することさえ可能なことが分かります。
不自由なオリから脱け出して人生を自在に創り出す感覚です。
ルールに従わされていた人生からルールを使いこなす人生への転換です。
それは自分が人生を自在に創造する喜びです。
ルールの外に出るからこそルールそのものを楽しむことができるのだと言い換えてもよいかも知れません。
コメントはお気軽にどうぞ