【第15回】モンテーニュがくれたモノ
時は既に10月に入っていました。年末に我々が一斉に解雇されるとなると二ヶ月しか残されていません。新しい塾を創るといっても物件を探したり工事期間を考えるとタイムリミットギリギリです。仕事の合間をぬって私たちは不動産屋を巡り、ついに江戸川台の東口に適当な物件を見つけました。この時点で我々はI氏あてに「退職届」を一斉に郵送。もう11月に入っていました。「退職届」を送って2日ほど経った日、授業に入ろうとしている私たちの所へI氏と見知らぬ十数人の男たち、顧問弁護士が乱入。I氏と顧問弁護士は緊張した面持ちで私ともう1人の同僚を部屋に呼び、ただちに出て行くよう告げました。
我々:「授業はどうするのか?」
I氏:「代わりの者を連れて来た。君たちが新しい塾を創ろうとしているのは分かっている。生徒を引き抜くつもりだろうが、すぐに出て行け」
弁護士:「君たちのやっていることは違法行為だから断固法的措置を取ります」
私:「やめて新しい塾を創ることのどこが違法なんですか!」
同僚:「分かりました。じゃ、引き継ぎをさせて下さい」
I氏:「そんな必要はない。すぐに出て行け」
弁護士:「ホラ、退去命令が出たんだ。出なさい」
私:「Iさん、私はクビなんですか? そうならあなたの口から直接聞きたい」(I氏、少しの間私を睨んでいたがやがてうつむく)
弁護士:「(I氏に)クビって言っていいんだよ。言いなさいよ」(I氏、そう白なまま口を開かず)
弁護士:「本日付けであなたを解雇します。私物を整理してただちに出るように!」
こうして私のI塾での2年半は思いもよらぬ結末を迎えたのです。
いよいよ我々の塾始動も現実のものとなり、新しい塾の名前は「クセジュ」に決定。フランス帰りの同僚の発案で、モンテーニュが書いたエセー(随想録)の中の有名な言葉です。QUE SAISーJE?―私は何を知っているのか!―当時の我々の気持ちに不思議とピッタリくる言葉でした。我々はI氏との確執で強い人間不信に陥っていました。私は2年半に過ぎないけど、多くの同僚は長年I氏に忠誠を誓っていて、中には創業から行動を供にしている者もいました。自分たちの信じてきたものは何だったのか? 本当のところ我々は何を知っているのか…。さらに私たちは「理想の教育」「理想の塾」について熱心に語り合いました。I塾で現場に集中し切れなかった経験が「今度こそ自分たちの手で教育をする」という思いを確実に強めており、「私は何を知っているのか?」というモンテーニュの言葉は『謙虚な学ぶ者の姿勢』を我々に示していると思えたのです。
新しい塾クセジュは1984年12月の冬期講習から開校することになりました。同年12月I氏はなんと千葉地裁松戸支部に「クセジュの営業差し止め仮処分」の申請を行い、この申請が却下されるとただちに私を含め、幹部講師6人を商法違反などで提訴しました。フゥ…。
裁判騒動よりも我々にとってもっとも残念だったのは、生徒や保護者との関係がある日突然プッツリ断たれたことでした。なんの罪もない生徒や親は一連の騒動から「カヤの外」です。そして昨日まで教えていた我々が前触れもなく消えてしまった。我々は全員一室にこもって生徒あてに謝罪の手紙を郵送しました。しかし罪悪感は消えるはずがなく、生徒や親を裏切ったという思いが残りました。
そんな状況だったので我々に自信は全くありませんでした。生徒を放置して消えた我々がたとえ新しい塾を開くといっても説得力があるとは思えなかったんです。それでも新聞チラシをまいて入塾受付の日を待ちました。
そして生涯忘れることのできない、クセジュ入塾受付開始日がやってきます。