【第14回】雲行きがあやしいゾ
こうして私の専任講師としての日々は過ぎていきました。入試での先のような失敗はありましたが、生徒の個性もつかめ、面談等を繰り返したことで親からも信頼を得るようになりました。日曜も生徒の補習や面談に出かけ、私は就任後1年間1日も休み無し! 若かったし仕事も楽しかったんです。
ただその頃から困った問題が生じ始めました。塾長のI氏が私を教室長に任命して以来、彼自身が現場にほとんど顔を出さなくなったのです。それだけなら問題はなかったのでしょうが、不意にやって来ては「新しいアイディア」を思い付いたと現場を混乱させます。例えば「これからはニューメディアの時代だ。塾と家庭をテレビ電話で中継して授業を行うようになるから」と怪しげなセミナーに職員を派遣。またある時は「これからは少人数個別指導がウケる」と少人数を売り物にした新教室をいきなり開設。極めつけはフィリピンに日本人駐在員の子ども相手の塾を創ろうとしたこと。この時は夏期講習中にもかかわらず私を「現地調査」の名目でマニラに派遣。私は炎天下のマニラで遠く江戸川台教室を想いながらウロウロ(笑)してました。
こんな状態だから現場の講師たちも忙しい中海外に遊び(?)に行っている私に批判の眼を向けるし大変でした。そんな我々の懸念を歯がにもかけずI氏は「これからは大手塾でなければ」と思ったのか、強引に4教室を開設。当然人手が足りず採用したばかりで実力未知数の講師を教室長にしたり、苦情が来ると慌ててクビにしたりで大混乱です。無論私や幹部も黙っていたわけではありません。生徒不在の「暴走」に何度も異議を述べたんですが、I氏は何かに取り憑かれたように一直線。聞く耳持たずです。
確かにI氏にはカリスマ性と独創性、また経営者として彼なりのカン、読みもあったと思います。私も彼の人間的魅力にはひかれていました。当時次々と湧いてくる(?)彼のアイディアの中には先見の明を感じさせる良いものもあったのも事実です。しかし全てが性急で強引過ぎました。
さらにある時、ひょんな偶然から私を含め幹部講師6人が知らないうちに会社(この塾は株式会社)の取締役に登記されていることを知ります。議事録には我々の署名捺印が偽造されていました。取締役といえば会社に何かあれば当然経営責任が生じます。そんな大役に誰一人就任した覚えはありません。真意は未だに分かりませんが、印鑑まで偽造されている計画性に我々はゾッとすると同時にI氏に対する不信感も決定的になりました。
話は前後しますが、この少し前私はI氏から「これまで培った塾経営のノウハウ―講師の研修法・生徒の指導法など―を他塾に販売する新事業を起ち上げたいので営業するように」ともちかけられました。「キミは弁も立つし、講師経験も豊富だから…」と要するに営業マンですよ。ガク然。私は自分なりの理想の教育に携わりたい一心で高校教師や短大講師の口を断ってこの塾に来たというのに…。
そんな時起こったのが「偽造取締役事件」です。ついに幹部の中にも退職したいと言い出す者が出てきました。我々はI氏に真意を問いただそうと詰め寄ります。1984年の春でした。最初はI氏も我々の勢いに折れる態度を見せたのですが結局運営方針をめぐって激しく対立し、そのまま半年間こう着状態に。夏が過ぎると我々も次第に焦り始めました。受験をひかえた中3や高3の面倒を見なければならないのに、生徒や保護者の間にもこのおかしな塾の空気が伝わらないはずがありませんでした。
追い打ちをかけるような衝撃的な事実はまだまだ続きます。ある深夜、かねて知り合いだった他塾の塾長がわざわざ江戸川台までやって来て仕事中の我々に伝えてくれたこと―それはI氏が密かに都内の事務所で塾講師を大量に募集し研修しているという話でした。年末に我々を一斉解雇しそのアトガマにするためです。現場もあり多忙を極めていた我々は気付きませんでしたが、この塾の混乱ぶりとI氏の画策は既に業界で有名になっていて、多くの塾の知る所になっていたんですね。
こうなると我々に残された時間はありません。直ちに私達はI塾を退職し「新しい塾」を創ることで一致しました。