【第13回】お母さんゴメンナサイ
昭和57年(1982)の夏のことです。私は江戸川台の塾の専任講師になり、高校の方は全てやめることにしました。子どもも生まれ私も身を固める(?)時期に来ていたんです。この時点で私にはいくつかの選択肢がありました。一つは熱心に誘ってくれた都内の男子校に勤めること。しかし前にも言ったように学校教師は私の性には合わないと感じていたので、あまり乗り気じゃありませんでした。もう一つは、少し前に北海道の母校に教育実習に行った際、校長から地元に新設予定の女子短大の講師を就職先として紹介されたんです。一瞬心が動きましたよー。27才で短大の講師というのは悪くない話です。しかも女子大!(笑)でも当時の私は田舎に帰りたくはありませんでした。刺激のある都会の方が性に合っていると思ってこれも断わりました。ですから1982年の夏に塾の経営者I氏から専任講師にならないかと誘われた時、私はすぐに承諾しました。周囲からは「バカ」扱いされましたけどね。
当時塾の講師というのは「男子一生の仕事」とは思われていなかったんですよね。今のように企業化された大手塾があるわけでなく、塾といえば学校を退職した人が自宅で近所の子どもたちを集めてやったり、ドロップアウトした人がひっそりとやるイメージだったんです。要するに「ちゃんとした勤め先」ではないと。私も勤務先の高校の同僚から「大丈夫なの? つぶれたらどうするの」と同情されました。私の母親も短大講師の口を断わったことを嘆いていました。
しかし私に未練はありませんでした。「もっともっと生徒たちの身近にいて彼らと交流し、若い彼らの能力を引き出してみたい。持っている可能性を出来る限り伸ばしてやりたい。そのためには塾の方がふさわしい」。こう言うとなにかカッコいいですが、要するに私なりに野心的だったということです。
専任になってすぐ、私は受け持ち生徒全員の家庭訪問を実施しました。学校の先生みたいですが、塾が「勉強」だけに関わっていれば良いというわけではない。家庭を訪れ親と会い、できれば子どもの部屋も見せてもらいたい。そうすれば「中身の濃い指導」ができるのではと考えたんです。またもや張り切りカンノです(笑)。地図片手に一軒一軒生徒の家を訪ねるのは大変でした。道に迷ったり車のタイヤを溝に落としたり…。中には露骨に嫌な顔をする親もいましたから。でも私は親の本音を聞きたかったし、生徒の家庭環境も知りたかった。
成果はありました。ある女の子の家で、お母さんから娘が学校でイジメにあって不登校状態と聞いたんです。学校に相談してもラチが明かないと。この子も塾にはふつうに来ていたんで知りませんでした。トイレに連れ込まれ同性の不良たちからリンチを受け続けたと聞いて私はすぐ行動に移りました。塾の顧問弁護士とも相談し、イジメグループ全員に「改めなければ事実を公にする」と通知。親も含め加害者(塾生ではない)を塾に呼び出し、イジメ行為を行なわないという念書を書かせました。その後ピタリとイジメはなくなり、その子も再び学校へ通えるようになったんです。
ただこの時期大失敗もありました。中3の女子であまり熱心に勉強しない子がおり、この子がある時学校の担任から「お前の志望校はレベル的にムリ」だから変更しないと「内申書を書いてやらない」と言われたのです。家庭の事情が複雑だったせいもあり、私は父親の代理として直接校長にかけ合い、なんとか受けられることになりました。彼女も心を入れかえ猛勉強。ここまでは良かった。ところが本番の入試で第2志望の私立に落ち「先生絶対受かるって言ったじゃん。も~っ! ウソつき死んでやる!」と冗談っぽく言うんです。で県立を受け自己採点の結果を聞いた私は「これなら大丈夫。合格間違いなしだ」と安易に太鼓判を押してしまいました。…結果は落第。慌てて家に電話するとお母さんが「泣きながら電話してきたっきり夜になっても帰ってこない」というじゃありませんか。私は彼女の「死んでやる!」というセリフを思い出しパニックになりました。「娘は管野先生が合格と言うから喜んで発表を見に行ったんですよ」というお母さんの言葉が頭の中をグルグルと回ってました。
結局彼女は深夜になって戻ったんですが私の軽率な言葉による大失敗でした。猛反省。