教育研究所ARCS

【第5回】限界きました

塾長奮闘記

限界きました

講師生活の原点

30年も塾で教えているとホントに色々な生徒に出会うし失敗談も数限りなくあります。その点、足立区時代の私の体験もその一つに過ぎないけど、自分の講師生活の原点になったという意味では大きかったですね。サカマキ君やモリ君のことは私に、生徒を表面的にしか見ていない自分の甘さを思い知らせる重要な教訓になったと思っています。生徒が塾で見せている姿はその子の一部に過ぎない。現にモリ君は塾、学校、家庭で各々違う姿を見せていました。
今、私が自分の塾のスタッフに「あらゆる手を使って生徒の情報を集めよう」と口うるさく言うのもこの時の体験から来ているんでしょうね。授業中の態度を観察するだけでは不足です。家庭での様子を親から細かく聞いたり、学校や部活で今どういう状況にあるのかを知り総合的に判断しなければ。

例えばA君は部活の部長だが、部員たちが言うことを聞いてくれなくて悩んでいるという情報を彼の友人から得たとします。で、何かの折にさりげなく「部長やってるんだって? 大変だろう。でも、君は人間関係について学んでるんだよ。将来役に立つから頑張れ!」と本人にサラリとアドバイスします。その時は本人もポカンとするかあるいはいぶかしそうに聞いているだけですけど、その後生徒と心の距離が縮まっていることが多いんです。よく考えてみて下さい。授業を上手に教えるだけで生徒から信頼されるわけではありません。「自分のことを分かってくれている」という思いが信頼に繋がるんです。特に思春期の頃はそうです。誰でも振り返ってみれば気付くと思いますが、そんな人との出会いって実際にはとても少ないですよね。

先生と生徒の距離が縮まり信頼関係が成立して初めて「指導」の効果が生まれます。ひいては成績の向上に繋がるんです。「塾なんだから勉強さえ教えればいいのだ」という考えだと勉強の効果も上がりません。たださっきのようなアドバイスはあくまでさりげなく。悩んでいる子は悩んでいること自体が恥ずかしいことなんです。その親にも話せない心の秘密に土足で踏み込んではいけません。若い講師が熱血を気取って「悩んでるんだって? 俺に話してみろ」などと正面から切り出して失敗してますけど、当たり前です。私でも20年かかったんですよ。もっとも私の能力が低いだけかもしれないけど…(笑)。

塾の廃業を決意したが…

さて時計の針を27年前に戻しましょう。そう、私の修行時代―足立区の一軒家で教えていた―です。三年目に入り、塾生も順調に増え、私一人で教えるにはそろそろ限界かなという矢先、ついにというか案の定トラブルが発生しました。もちろん家主と「本部」との金銭トラブルです。「こんなに儲からないなら、他人に貸して家賃取った方がいい。」家主の最後通牒でした。私としたらせっかく生徒も増え、どうにか「塾」らしい形になってきたのですが、家主の主張はもっともでした。増えたとはいえ、40人足らずでは私の給料と「本部」の取り分を差し引くとほとんど家主には渡らないんですから。

それに日々忙しくなる塾での仕事に不安も感じていました。学業もおろそかになっていましたし、このまま塾が「本業」になってしまうのではないかと。実はこの頃大学の研究室の紹介で埼玉県の私立高校でも非常勤講師を始めていたんですね。「この辺が潮時かもしれない。第一、家主がやめると言ってる以上私がここに残る道はない。『本部』とも縁を切ろう!」

ここまで考えて、私はやめる決意を固めました。しかし心残りは中3の生徒たち。彼らは中1の始めから私が教えてきた子たちです。十数人ですが、一人一人に思い出があり、高校受験まで見届けられないのは何とも残念でした。でも仕方ありません。私は「本部」に辞表を送り届けるとすぐに生徒全員の家に「塾を廃業する」電話をかけ始めました。突然のことに驚いている親たちに私は何度も謝罪し、これまでの経緯をこと細かに説明しなければなりませんでした。丸一日かかって電話し、私はグッタリとなってしまいました。

ところが翌日のことです。母親の一人からこれから行くという連絡があり、待っているとなんと20人近い塾生の親たちが押し寄せて来たのです。