教育研究所ARCS

【第2回】ヤクザと天使たち

塾長奮闘記

ヤクザと天使たち

そもそも私が塾で教えるようになった70年代の半ばは第1次学習塾ブームの頃で、それこそ雨後のタケノコと言われるぐらいそこら中に塾ができ、「乱塾」ということばがマスコミを賑わしていました。

また中学校では校内暴力(生徒が教師を殴る・校舎の窓ガラスを破るなどなど…)が全国的に横行して社会問題になっていました。この70年代というのは公教育が揺らぎ始めた時で、歴史的にも「学校神話」が崩れ出した時期に当たります。

塾ブームの影に学校不信があったんですね。しかしマスコミも学校も受験競争が塾通いに繋がったといって、塾や受験制度を標的に攻撃していました。「塾」悪者論ですね。

所長管野、初めての塾講師

と、評論家ぶったお話はこれぐらいにして、当時私は学生アルバイトとして気楽な気持ちで―他のアルバイトより時給が高いし―塾講師を選びました。

ところがその塾ときたらまぁヒドイところでしたね。

何というか一種の詐欺まがいの塾だったんです。詳細は省きますが、要するに塾経営者募集とチラシを打って保証金を取り、場所を提供してもらう代わりに「本部」が講師を派遣するという仕組みです。

で、授業料は折半。生徒が増えれば家主(経営者)も儲かるというわけです。もちろんそれはチラシの上だけのお話。「本部」は生徒が集まっていないからとか何だかんだ理由をつけて家主にお金を振り込まない。そこで矢面に立たされるのは我々講師たち。派遣される先々で、詰め寄られたり罵倒されたりと散々な目に遭いました。私も派遣先の南柏の教室で、怒った家主に監禁(?)されたことがあります。授業後やくざ風の家主に呼ばれ、

「お前んとこ、どうなってんだ。金、振り込まれねぇじゃねーか!」と。

怖かったですよ~。何しろやくざ風でしょう。東京湾に沈められるんじゃないかと(笑)。とにかく密室に二人きりで、いつ帰してもらえるかわからない状況で。でも最後にはその家主も「わかってるよ。あんたを責めたってしょうがないって…」と解放してくれましたけどね。

大半の講師は半年も持たず辞めていきました。だってあんな目にあいながら給料もらえなかったりするんですよ、普通に。そんな劣悪な環境にもかかわらず、私はけっこう楽しんでました。本部の職員と交渉するんです「給料下さい」って。

すると職員は「生徒から月謝集めて来たら出す」と言うのでそれを逆手に取り、

「集めて来ました」と月謝袋を見せてから自分の給料分を彼の目の前でポケットに入れる。本部の取り分はほとんどないんですけど、何も言わずに(笑)。そういう駆け引きは面白かったです。

 生徒たちとの交流

と、本当に楽しかった理由はそこではなくて、何といっても生徒たちとの交流があったことでした。私は都内を中心に何十ヶ所もの教室に派遣されましたが、どこでも生徒たちと楽しくやってました。

最初に派遣された川間の小学生たちとは、わざわざ休日にまで出かけて一緒に野球をしたり。授業後に終電に間に合うように私を自転車に乗せて駅まで送ってくれる中学生もいました。それから町田では毎回なぜか私にお弁当を持って来てくれる中3の男の子とか(笑)。浦和で教えていた時は確か小5だったと思いますが、女の子二人がいつもバス停まで送ってくれて、別れ際にはキャンディとかチョコレートを競うように渡してくれたのを覚えています。

この頃を振り返ると、確かに劣悪な塾で数々の嫌な思いや授業での苦労もあったはずなのに、浮かんでくる映像はなぜか楽しいものばかりなんです。古い記憶は美化されると言いますが、それだけではないでしょう。私が学生だった当時、大学のキャンパスはまだ「政治の季節」でした。学内は様々な色のヘルメットをかぶった学生たちが校舎をバリケード封鎖していたり、内ゲバによる殺人も珍しくなかった時です。私の心も知らず知らずの内にすさんでいたのかもしれません。そんな中で、塾で出会う生徒たちは純真そのものでした。私は彼らに癒されていたんだと思います。

ふと計算してみると、あの子たちも今頃は40歳前後…。浦和のバス停で私にキャンディを手渡してくれたかわいい恋人たちも今やお母さんになっている年齢ですね。

※2005年当時に書かれたものをそのまま掲載しておりますので、文中の年数が現在と異なる部分がございます。