教育研究所ARCS

【第6回】ママVS僕バイト講師です

塾長奮闘記

ママVS僕バイト講師です

私は、自分たちの勝手で塾を廃業することに親たちが抗議しに来たと思い、ビビりました。部屋の中は興奮したお母さんたちの熱気でムンムン。教室に入りきれない人がリビングにもあふれていました。私はたった一人で女たち―代表団―と対峙することに。

教室問題の意外な結末

DSC_5706

しかし話は意外な展開を見せたのです。私が改めて謝罪の言葉を述べた途端、代表らしいお母さんが「事情はわかりました。でも先生はやめないで下さい」と言います。それから口々に「子どもがなついています。やめないで下さい」と声が上がります。一瞬目頭が熱くなりました。でも家主から退去を命じられている私に何ができるでしょう?

予想外の事態に困惑している私にお母さんたちが言うには、教室として使用できる物件を自分たちで探す。今日からでも不動産屋を手分けして当たるからやめないで続けて…と。一人のお母さんが知り合いの不動産屋がいるからとその場で私の返事も聞かずに電話をかけ始める始末です。もう完全に私はカヤの外。お母さんたちは勝手に盛り上がっていき、私もやめるとは言えない雰囲気に(笑)。でもお母さんたちの好意は本当に嬉しかったです。私はその頃、自分が頼りない人間だと思っていました。塾の仕事も自分なりに一生懸命でしたが、それでも「所詮一時的なバイトに過ぎない…」とどこかで考えていた私に批難めいたことも言わず、子どもたちの先生として認めてくれた。その上「教室」まで提供しようと集まってくれたのです。

結局長い議論の末に私が下した結論は、もし物件が見つかるならあと一年だけここで塾を続けるという妥協案でした。それなら中3の受験も見届けられるし、受験生以外の子たちも他の塾を探す余裕もある。私もズルズル塾講師を続けることを避けられる…。「ええーっ、一年というのはキツイですよぉ」とお母さんたちは不満気です。また紛糾しかかった時でした。「そういうことなら…」とそれまで腕組みしたまま冷めた感じで議論を眺めていたお母さんが口を開きました。

「うちの離れ、物置同然ですけど空いています。そこを提供します!」
皆が一斉に彼女の方を振り返りました。誰も発言しません。これで決まりでした。

こうして私はそのお母さんの広い庭のある離れでさらに一年教えることになったのです。すでに引っ越していた松戸から私は車で通いました。生徒の半数はやめていきましたがおかげで私も何とか義理を果たせました。中3生は全員が第1志望に受かり、そして最後の授業が終わった日、何人かのお母さんが連れ立って来てくれました(その中にはあのモリ君のお母さんもいました)。私は古い木造の離れに彼女たちを招き入れ、「先生、ご苦労様でした。色々なことがありましたね」そんな話をしながらしばらく談笑しました。ひとしきり雑談した後お母さんたちは改まった様子で「子どもがお世話になりました」とおじぎしました。私も立ち上がって深々と頭を下げ、去って行くお母さんたちの後ろ姿を心に焼き付け見送りました。とてもおだやかな午後でした。

「足立区時代」の終焉

私がこの一件から学んだこと――そうですね。人の親切のありがた味、下町の人情とか色々ありますが、「全ては学びの場」であるということでしょうか。当初私は、詐欺まがいの塾に入った身の不運を感じていましたが、他の講師のように早く見切りをつけていたら足立区で教えることもなかったし、足立区の一軒家で塾をやっていなかったら、あのように(お母さんたちに)支援してもらう経験も持てなかったと思います。いや、何よりあの日お母さんたちが信頼を寄せ詰めかけてくれなかったら、今のように生徒の親御さんとコミニュケーションをとる大切さを理解できていなかったでしょう。講師、経営者としてではなく、一人の人間としてこれらの体験は私の宝なんです。

足立区の塾での修行時代は四年間に渡りました。最後に一人だけ中学受験する小6の子がおり、その子だけはしばらくの間松戸の自宅に呼んで教えました。その子が合格した時、私の中の「足立区時代」が終わりを告げました。